第二章◆王都
02

 入り組んだ路地を抜けた果てに夜屋敷はある。
 ここに住んでいるのは占いを生業とする魔術師ミラージュとその愛猫たちだ。一歩足を踏み入れれば、庭の繁みの影や塀の上に丸くなった猫の姿を見ることができる。素朴な農家風の屋敷の中にはあちこちに仕事道具が置かれており、その一つ一つが異様な雰囲気を醸し出していた。天井から釣り下がる紫色の蔦、針の代わりに大きな猫の目が描かれた時計、机の上に散らばった石。すでに日が昇っているのも関わらず、燭台の蝋燭には火が灯されている。
 ふっ……、とその小さな火が揺らいだ。人影が壁を撫でるように動く。
「――気に入らなかったかしら?」
 落ち着いた口調で問うたのは夜屋敷の主、ミラージュだ。緑色の瞳が楽しげに細まる。ローブを纏ったその姿は十二歳の小柄な少女だった。
 屋敷の客人――流れ者のクリアは燭台の傍に立っていた。
 身をくねらせるように揺らめく蝋燭の火をクリアの指先が包み込んだ。
「……どういう代物だ?」
 ゆっくりと開いた掌を眺めながらクリアが言った。確かに火を掴んだはず――しかし熱さを感じなかった。
 ミラージュは「火傷したら大変でしょう?」と微笑んだ。
「あなたは昔からそういうものに敏いわね。気付かれないように、そっとやっているつもりなんだけど」
「ふん……これでか?」
 クリアは蝋燭を睨みつけ、おざなりな溜息を吐いて火を消した。
「ここは来る度、妙なものが増えているな。ミラ嬢」
「危ないものはないから大丈夫よ。猫ちゃんたちが怪我でもしたら大変だからね」
「実際がどうであれ、これだけの『魔』を集めておけば、周りから何を言われてもおかしくはないだろう」
 鋭い目つきでミラージュを見据える。古くから伝わる魔術を扱うことができるのは、この国にはミラージュだけだ。『魔術師』の称号を持つ者は極めて稀である。
 跡を継ぐ者もおらず、半ば絶えかけているもの。
 かつては栄えていた魔術も今では人々と関わることも少なく、その程度のものとされている。
 ミラージュは両手を広げた。
「使い方次第よ、どんなものでも。それに、占いのお客さんには結構評判がいいのよ。不思議なものがたくさんあるってね」
「物好きめ。不思議なもので済めばいいがな」
「うふふ、一つご覧に入れましょうか?」
 そう言って机の上の石に手を伸ばしたが、クリアはすげなく「いらん」と言い放って視線を逸らした。ミラージュは声を立てて笑う。
「こうやってゆっくり話すのも久しぶりねえ」
「……そうかもな」
「あなたがこの国を出て行ってから、もうどのぐらい経つのかしら。長い旅だったわね」
「そうでもない。……ミラ、お前は昔と全く変わらないな」
 少女はにっこりと微笑んだ。
「あなたが旅をしただけ、休める時があるといいわね。……今回は王都まで行くんでしょう? もうあと四日で供養祭だものね。ジョストもあることだし」
 ジョストと聞くと、クリアはああ、と僅かに首を傾けた。
 供養祭と同日に行われるのがジョスト――一騎打ちの競技大会だ。腕に覚えのあるものが参加し、力を競い合う。終戦後に行われるのは初めてのことだ。
「クリアは参加するの?」
「いや……他にすることがある。――この屋敷に誰か来なかったか?」
「あなた以外だったら、そうね、もうすぐ来るわ」
 ミラージュは席を立つとクリアを残し部屋を出て行った。入れ違いに入ってきたのはミラージュが可愛がっている黒猫だ。滑らかな動きで机に飛び上がると、石の一つを前足で突きはじめた。
 石はころころと猫の思うままに転がっていき、他の石とぶつかり合った。
 クリアはその様子を横目で見下ろしていた。あるいはミラージュなら、散らばった石から何らかの兆しを読み取ることができたかもしれなかった。だが、クリアの目には到底意味のあるようには映らない。
「さあどうぞ。この国は初めて? あなたで二人目だわ」
 扉の開く音に混じってミラージュの声がした。
 振り返ったクリアと目を合わせたのは、何かを見定めるような表情を浮かべたサザレだった。


「何だ、来たのか」
 サザレが目の前に立つなり、クリアは一瞥をくれてそっぽを向いた。
「何だとは何だ……」
 素っ気ない態度にサザレは肩を落として溜息を吐く。その横を通り抜けたシャーレがクリアの耳元で何事か囁いた。クリアは一度シャーレの顔をじっと見つめ、それから黙って二人とも別室に移っていった。
「おい、クリア?」
「あらあら。それじゃあ、私たちは先にお茶にしましょうか」
 二人が消えた扉を気にしていたサザレは、改めてミラージュと向かい合った。
「あなたが……『魔術師』ミラージュ様ですか」
「ええ。会えてうれしいわ、サザレ」
 ミラージュは馴れた仕草で胸の前で合掌した。サザレも同じように礼を返す。
 ミラージュは台所でお茶の用意を始めた。クリアが戻ってきたのは、ちょうどそれが終わって三つのティーカップから白い湯気が立ち上がり始めた頃だった。
 持っていた鞄をサザレに放り投げ、革張りのカウチに腰を下ろす。
「ら、乱暴にするなよ。危ないだろ」
 サザレの訴えも素知らぬ顔で受け流し、クリアは鞄から抜き取った小包を膝の上で広げた。
 中から出てきたのは数種類の鋏だった。
「シャーレから預かってきたのか」
「そうだが……彼は?」
「帰らせた。来いサザレ。切ってやる」
「は? 切る?」
 言われるままにクリアに近づいて腰を屈めたサザレは、いきなり髪の毛をわし掴みにされて悲鳴を上げた。
「ちょっと待てクリア――何なんだ、急に!」
「静かにしていろ。すぐに終わる」
 手加減なく髪を引っ張られ、サザレは動転した。クリアの手を押さえようとするが、逆に腕をとられて捻りあげられてしまう。
 またもや悲鳴を上げたサザレに同情したのか、それまで成行きを見守っていたミラージュが笑いながらクリアを止めた。
「クリア、ちゃんと説明しなきゃ駄目よ。サザレは異邦人なんでしょう?」
「面倒だな……」
 舌打ちすると、クリアはサザレを解放してカウチに深く凭れかかった。自分で説明するつもりはないらしい。
 後を受けてミラージュが口を開いた。
「サザレ、この国には、元々髪を長く伸ばす習わしがあるのよ」
「習わし……ですか」
 サザレは乱れた髪を撫でつける。
「そう。男の人も女の人も、成人したら髪を長く伸ばし始める。『長髪派』と呼ばれているわ。これが昔からの伝統なの。シャーレもそうだったでしょう?」
「ええ。でも関所では、長髪の人のほうが少なかったと思いますが……」
「ユシード東関所では少し事情が違うのよねえ。主流である長髪派に対して、髪を伸ばさない人たちは『短髪派』といって、敢えてしきたりを守らないでいるの。若い人に多いわ――クリアみたいにね」
 名指しされたクリアの髪は確かに短かった。といっても、結ぶほど長くはないというだけで、前髪などは左目を隠してしまう程度には伸びている。
 サザレは眉を寄せた。
「それで俺にも髪を切れと?」
「嫌か」
 クリアの手元で銀色の鋏がくるりと回る。
「いや、そうじゃなくて……切る必要があるほど長くないだろ、俺は」
「襟足を整えるだけだ。余計な詮索はされたくないからな」
すぐに終わると言っただろう、とクリアは不機嫌そうに答える。
「……つまり、どちらなのかはっきりしないから切れと?」
「そうだ」
 頷いたクリアはいつものように愛想がなかった。その無表情の顔とぎらつく鋏の刃を交互に見比べていたサザレだったが、やがて決心がついたと見え、「頼む」と一言告げてクリアの前に膝をついた。
「背中を向けろ。動くなよ」
 クリアの鋏が手際よく動いた。




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