偉大なる落し物/ある好き嫌い
01

 学園には寮がある。大方の生徒はそこで暮らしそこから学園に通っている。実家から毎日歩いて登校しているのは、今春十六歳で入学した伊賀十梅ぐらいなものだ。
 十梅の家――というか屋敷は祖父から譲り受けた遺産なので、唯一の孫としては他人の手に渡すのは忍びないのだろうと、周囲は十梅の実家通いをそのように解釈している。教員も特に注意してこないのが十梅にはありがたかった。中学のときは一人暮らしだということであれこれ構ってくる教員が多かったのだ。

 入学して三ヶ月が過ぎた。桜が散って、五月の連休が終わったと思ったら既に梅雨の時期だ。
 ホームルームでふと窓の外を見た十梅は、ぐうと眉を寄せて降り出した暗い雨を睨んだ。校則通りに前髪を切り揃え、二つ結びに縛ったばかりでそういう顔をすると、影が落ちて険しい目付きに見える。
 この木瓜組の担任は話が端的で短い。ぽつぽつと校庭を濡らす雨が本降りになりはしないかと横目で盗み見しながら、教壇の上にかかっている時計の音を聞いた。手遅れだろうが、家に干しっぱなしの洗濯物を早く取り込みたい。終業まであと六分。
 クラスメートの東屋庵がにこにこと話しかけてきたのは、それからきっかり六分後のことで、十梅は学生鞄を手に席を立ったところだった。
「伊賀さん。これから暇? 時間ない?」
「残念ながらありません東屋さん。雨が降っているのでさっさと帰ります」
 十梅は一重の目を庵に向け、道をあけるように示した。
 庵は気づいているのかいないのか、従う様子はなく、十梅の机に両手をついて身を乗り出す。
 男子にしては長く柔らかい髪がバツの形をしたバレッタで留められていた。
「じゃあいつなら遊べる? 俺、一回伊賀さんと話してみたいんだけど」
「今話してるじゃないですか」
「こういう話じゃなくて! もっと別なこと」
 庵がちょっと上目遣いすると、十梅は成程この面か、と半目になった。
「東屋さん」
「ん、何?」
「いくら女顔でも男子の上目遣いはちょっと……」
「ひどい! 伊賀さんちょっとそれひどいよ?!」
 学生鞄を盾にして教室を出ようとする十梅と、それにまとわりつく庵はしばらく帰る帰らない遊ぶ遊ばないとやり合っていたが、その内庵の方が「あだっ」と叫び声を上げてばったり倒れた。背後からの飛び蹴りを受けたのだ。
 「てめェ庵コラ! 今日は放課後補習だって朝言っといただろうが! こんなところで何油売ってやがる!」
 だん、と足音高く床に着地し、仁王立ちしたのは四クラス離れた梔子組の東屋楼だった。つり目に癖毛の庵の兄弟である。
「オラ立て馬鹿庵! 教員にぐちぐち言われんのはこっちなんだぞ、判ってんのか!」
 楼に耳を掴まれ、庵は乱暴に引っ張られた。
「い……てェよ楼! 何だよ補習って、そんなの聞いてないし」
「朝っぱらから洗顔パックなんてしてるから呆けてんだよてめェの頭は。ちゃんと伝えたぞ」
 楼は腕組みをして庵を睨み上げた。
 特技が空手なこの兄弟にケンカで勝ったことなど一度として庵にはない。唇を尖らせて辺りを見、気づいた。
 十梅がいない。
「……っの阿呆楼! 伊賀さんいなくなってんじゃん! もー折角チャンスだったのにー!」
「もーとか、かわいこぶんな気色悪い! どーせまたくだらないこと聞きたかっただけだろ!」
 信じられない、と庵は大げさに嘆いてみせた。
「くだらないって……伊賀さんが髪の手入れに何使ってるか聞くのがくだらないっていうのかお前は」
 庵の美容への執念は生半可なものではない。人に会うときのマナーだとか言って休日には化粧もする。女子高生向けのファッション雑誌だって普通に読んでいるので、男友達より女友達の方が多いくらいだ。
 ファッションだとかそういうキラキラしたものに興味のない楼は、自分の兄を得体の知れないものを見る目で見た。
「気色悪ィ……」
「うっさい黙れ阿呆妹!」



 教室を抜け出した十梅はあることに気づいてまだ校舎の出入り口で右往左往していた。傘がない。屋敷までは三十分ほどかかるので走って帰ることもできない。寮の生徒が屋根付きの渡り廊下を歩いていくのを見送りながら、十梅は図書館で時間を潰そうかな、と考えていた。
 雨足は少し勢いを増したようだ。出入り口のぎりぎりのところに立つとうっすらと寒気が体に触れる。軽く風が吹くとセーラー服の裾が濡れた。
「トウメサン」
 十梅の耳が若い男の声を拾い上げた。校門を振り返ると、長身の外国人がこちらに向かって手を振っていた。
「ウィルマーリさん……」
 この学園の校庭は広い。校門は遠すぎて十梅にはウィルマーリの顔も判別できないのだが、あちらからはよく見えているようだった。
 雨が絶えず一直線を描いて振り続ける中、透明な安っぽいビニール傘が天を衝いた。
 途端、十梅は校門に向かって走り出した。
「学校お疲れ様デシタ、トウメサン」
 ヘアバンドで見事な金髪を纏め上げたウィルマーリは、校門を挟んで向かい合った十梅に持っていた傘を差し出した。
 十梅は息を整えると傘には見向きもせず、一気に言い放った。
「貴方馬鹿ですね。びしょぬれじゃないですか」
 ウィルマーリの髪から雫が滴る。
「屋敷から歩いてきたんですか。傘を持っているなら差してくるとか……そうでなくても貴方なら雨を止ませるぐらいできるでしょうに」
「トウメサンが傘を持っていっていなかったから……」
 ウィルマーリは言い訳のようなことを口にしたが、自分の髪を引っ張って「トウメサンの言う通りみたいだ」とにっこり笑った。
「……帰りましょうウィルマーリさん。このままじゃ二人とも風邪をひきます」
 十梅は些か呆れた溜息を吐き、傘を受け取って開いた。ビニールの向こうで景色が奇妙に歪んだ。
「あっ、トウメサン、洗濯物片付けたけれど濡れてましタ」
「元より貴方が取り込んでくれるとは思っていなかったので気にしなくていいです」
 ウィルマーリは十梅の右手を握った。そのまま力など入れていないような動きで十梅を校門の自分の側へと引き上げ導く。
 十梅はふわりと校門を飛び越えたわけだが、驚きもしなかった。
 傘をウィルマーリへと渡す。
「帰りましょう。夕飯の支度を手伝ってください」
「ハイ、トウメサン」
「というか、この雨、本当にどうにかなりませんか」
「イソウロウさせてくれてるトウメサンの願いなら叶えてあげたいけれど」
 ウィルマーリは空を見上げ、それから目を伏せた。美術の教科書に載っている白皙の石像に似ている。
「ウィルマーリさん」
 本気にしないでください、と十梅はウィルマーリを見上げた。
「そんなことより、夕飯は何がいいですか? 商店街に寄って行きましょう」
「シャケが食べたいです、トウメサン」
 生じゃなくて焼いたヤツ、と付け足すと、十梅は可笑しそうに笑いをこぼし、
「魔術師にも好き嫌いがあるんですか、ウィルマーリさん」
「そう、生魚がキライなウィザードです」
 四月から同居しているウィルマーリ・シュルナは魔術師を名乗る不思議な外国人だった。



(伊賀十梅:いがとうめ 東屋庵:あずまやいおり 東屋楼:あずまやろう)
(木瓜組:ぼけ 梔子組:くちなし)

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