偉大なる落し物/蛇の目でお迎え
02

 英語なのか仏語なのか知らないが、毎朝六時のウィルマーリの習慣は、舌を噛みそうなごちゃごちゃした歌を歌うことだった。十梅がまだ布団に潜っている頃、縁側からの歌声は目覚まし代わりとなって朝の空気の中をするすると滑っていく。それを聞くと十梅はひたすら布団に丸くなっていたいような、しかしそれも申し訳ないような、そんな気持ちになる。眠気を取り去るには丁度いい歌声である。たまには歌っているウィルマーリの姿をしげしげ見てみようと、十梅はいつもより少し早く起床した。
 襖を軽快に開けていった。屋敷は馬鹿に広いので、開いた部屋を突っきって縁側へと近づいていく。襖を開けるごとに声はだんだん大きく聞こえてくる。
 鳥の声。
 十梅の足元に、一匹の黒猫が擦り寄ってきた。抱き上げてその両目を覗き込んだ。つやりとした黄色い瞳の中に十梅が映っている。起きたままのくたびれた寝巻きに、整えてもいない黒髪が自分でもひどいなと思うも、ウィルマーリ相手では取り繕う気にもならない。
 猫は文月といって随分賢かった。時折、書斎で本を読んでいるような素振りを見せるからそう名づけた。文月は声を立てずに十梅の頬に鼻先をくっつけ、ちらちらと髭を動かしていた。毛並みが綺麗に撫で付けられている。
 縁側に出るまであと襖一枚といったところで十梅は急に台所へと足先を向けた。
 正確な時間は判らなかったが、そろそろ朝食を準備する頃合に思われる。ウィルマーリもその内歌うのをやめるだろう……そそくさと踵を返した。開けっ放しにしていた襖を次々と、静々と鎖して縁側の明るさから遠のいていった。文月は十梅の手を慰めるようにひとなめする。むやみやたらに鳴かない猫なので、動作の一つ一つが何か意味を持って伝わってくるが、十梅にはざらざらの舌触りばかり印象づいた。
 台所の前に洗面所で顔でも洗おうかと思った。
 ウィルマーリの歌声はとても気持ちがいい。



「おはようございマス、トウメサン」
「おはようございます、ウィルマーリさん」
 卓袱台に朝食を並べていると、その十梅の後ろからウィルマーリが鴨居を潜って来た。作務衣姿が非常に似合っていない。
 ウィルマーリは正座し、お茶を注ぐ十梅の手元をにこにこしながら眺めていた。急須も湯飲みも柚葉色が濃く、若い十梅の手とはちぐはぐな感じがする。
「トウメサンの手は白いデス」
 ウィルマーリはそう言うと、すぐにいただきマスと手を合わせて箸を取った。
「そうですか? ウィルマーリさんの方が白いでしょう……」
 十梅は特に興味なさそうに湯飲みに口をつける。見かけは白人のウィルマーリの方が色白である。
「今日も学校ですか? トウメサン」
「いえ、土曜日なので休みです」
 ウィルマーリが十梅の格好を見て首を捻った。
「休みでも制服着るのですカ?」
「……制服ならどこにでも着て行けるので。今日はスーパーに買出しに行こうと思ってるんですが、何か必要なものがありますか、ウィルマーリさん」
「ンー……」
 ぱっと思いつくものはなかった。この屋敷に居候し始めてから殆ど外に出ていない。
 だからといって家事をするでもなく、日がな一日を文月相手に過ごしている。猫とは自由なもので、文月は時折草いきれの匂いを体中に漂わせていることもあった。ウィルマーリはまだ街をほんの数回しか歩かない。
 服でも買ってきましょうか、と十梅はウィルマーリの作務衣を見た。
「その作務衣、ずっと箪笥に仕舞っておいたものですし、丈が合ってないでしょう。適当でいいなら、何か見繕ってきますが」
 いつの間にか十梅は朝食を全て平らげて片付けに入っていた。空の茶碗を台所へと運ぶその後姿に、
「一緒に行きたいデス、トウメサン」
 ウィルマーリは屈託なく言った。
「珍しいですね……」
 振り返ることなく十梅は水道の蛇口を捻って洗い物をし始めた。
「では、きちんとした着物に着替えてもらいますよ。祖父のがどこかにあった筈ですから」
「ハイ、モチロン」
 ウィルマーリはゆっくりと食事を再開し、たまに行儀悪く箸をカチカチと鳴らしていた。ご飯を上手く掴めずに落とし、掬い、また落とすといった具合にぎこちない動きを繰り返している。
 十梅はその様子を横目で見てさっと奥の祖父の部屋へ向かった。今はもう誰も使っておらず、一つきりの箪笥と床の間の花瓶だけが侘しく放置された、清水に沈んだような部屋だ。人間臭さがない。十梅は箪笥の上から三番目の引き出しを開けて、畳紙に包まれた海松色の着流しを取り出した。
 ふと微かな足音を感じ、振り返る。
 文月が部屋の敷居を跨ぐことなくじっと座ってこちらを見ていた。



 黙ったきりの黒猫に本を開いておいてやってから二人は外に出かけていった。着流しに下駄を履いたウィルマーリは歩きにくそうにしていたが表情は明るい。からころと音を立てる足元を何度も覗き込み、その度に嬉しそうに笑っている。
「転びますよ」
 十梅の方は学園の制服姿で、頭の天辺から足先まで黒一色だった。財布を入れた手提げ鞄は青と白の水玉模様で子供っぽかった。
 商店街へぼちぼち歩いていくと、少し早い七夕の飾り付けがアーケードから垂れ下がっていた。その下に買い物客がちらほらいて、十梅とウィルマーリも混じりこんだ。
 着物姿の外国人は周囲の目を引くが、観光客か何かと思われて、それほど騒がれずに古本屋へ入ることができた。
「フヅキに新しい本を買ってあげたいデス」
 ウィルマーリには何の疑問もない。
 店の中は棚以外の隅々まで日に焼けた本で埋もれていた。積み重なった何本もの本の柱が天井を支えている。奥へ進むと黴と埃の匂いがした。レジの近くで眼鏡の男が一人、丸椅子に座って文庫本を開いていた。
「トウメサン、これハ?」
 ウィルマーリが分厚い本を棚から引っ張り出した。紺色の表紙に金字で『野鳥図鑑』と書かれていた。
「鳥の図鑑ですね。文月にはちょうどいいと思います。これにしますか?」
 十梅はウィルマーリを仰ぎ、ふとその背後の棚に目を留める。
「ウィルマーリさん、あの本、ちょっと取っていただけませんか」
「これですカ?」
「ええ」
 みずみずしい赤色をした本だった。洋書らしく十梅には読めないものだったが、どこか懐かしさを感じながらページを捲っていた。祖父が生きていた頃、蔵書を少し売り払ってお金にしたと聞くから、これもそんな本の一冊なのかもしれない。
 十年以上前に赤い本が屋敷の書斎に収まっていたのを思い出した。
 初めて祖父と会い、声を聞いたときのことだ。
 図鑑とその赤い本を買った。眼鏡の男はいなくなっていて、レジには誰もおらず、やむなく代金を置いておいた。これこれこういう本を買いました、などと一言書いたメモでも残しておいた方がよかったか、と店を出てから気づいたが、十梅の気持ちはまた訪れるつもりになっていた。
 カバーも何もない二冊はウィルマーリに抱えられ、図鑑はともかく、赤い本は久しぶりの外気に触れて、ぎゅっと身を強張らせているように小さく見えた。



(海松色:みるいろ)

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