第一章◆小国
02

 北のサンマリア地方はまだ雪が残っている。国境代わりのノア山脈は険しく切り立ち、朝日を浴びると白く反射した。そこから流れ出る豊かな川は、地方のあちこちで群青色の湖となっている。白と青が織りなすこの景色は国内随一の名勝の地だと言われていた。
 サンマリアの街には国内四つの関所の一つ、ノア北関所がある。山脈を越えての入国者は少なく、関所の規模も棟が二つに小さな小屋が一つとささやかなものだ。
 そこの隊長を務めるオルト・ガースは執務室で電話をかけていた。机の上に両足を乗せ、左手には煙草を挟んでいる。一つ結びにした髪は肩にかかるほどの長さだった。
「……出ねェな」
 いつまでたっても繋がらず、オルトは受話器を置いた。
「何やってんでしょうね、シャーレのやつ。もう家出ちまったんすかね」
 部下のギガは床で雑巾を絞っていた。こちらは髪が短く、耳にはピアスをつけている。
「どーしたもんですかねえ、連絡がつかないとなると。迎えがなけりゃ、あのガキどもてこでも帰りませんよ」
「ガキじゃねェ、殿下だ。口の利き方に気ィつけろ」
 オルトは煙草をくわえた。
「んなこと言われてもー……俺、王族の顔すら見たことないですし」
「てめェは中央勤務だっただろうが。王都に住んでて、なんで知らねェんだよ」
「祭典なんかは全部さぼってましたしー」
 ギガは雑巾がけの手を止めて口を尖らせた。んなことやってるから左遷なんかくらうんだ、とオルトは呆れた。呆れたついでに、ギガに向かって書類の束を投げつける。
「書いとけ。始末書だ」
「えっ……えええー?」
「三ヶ月減給のところを雑用で勘弁してやってんだ。文句言うな。俺が戻るまでに掃除終わらせとけよ」
 オルトは執務室を出た。懐中時計は七時半を示している。食堂に行けば、ちょうど例の子供たちが朝食をとっているはずだった。
 食堂は兵士たちで込み合っていた。しかし真ん中の席だけは人気がない。
「よう」
 その席に滑り込む。
「あらオルト。おはよう、ご飯食べに来たの?」
 見事な金髪を二つ結びにした少女がオルトに挨拶した。その隣にはもくもくと食事を続ける少年がいる。妙に上品な手付きでスープを飲んでいた。
「俺はもう食った。お嬢ちゃん方はまあ……具合もよくなったみてェだな」
 オルトはちらりと少年の方に目をやりながら、空いた椅子を引き寄せた。
「昨夜は遅くに押しかけてごめんなさい。一晩休んだからもう大丈夫よ」
 ね、と少女は少年に向かって笑いかける。それでようやく少年は顔を上げた。
 昨晩はこの顔が血の気を失い真っ青だった。王都から二日かかるこのサンマリアに到着するまで、休まず進んできたという。
 少年はすっと姿勢を正し、オルトに向かいなおった。
「お前さんも大変だったなあ。無理に引っ張られてきたんだろ。このお姫さんによ」
 オルトは少年に向かってそう言った。
 少女――姫殿下は頬をふくらませる。
「ひどいわね、引っ張ってなんかいないわよう」
「どうだかなァ。おいロビン。このお姫さん、結構力強いだろ」
 ロビンは思案顔をして、それからこくりと頷いた。
「アンジェラは……逞しいな」
 小さな声だったが、オルトは思わず吹き出した。口数の少ない少年でもはっきり言うことはあるらしい。
 アンジェラはますますふくれっ面になった。
「何とでも言ってなさい。弱々しい姫であるつもりはないわ。力あってこそ国を守っていけるんだもの」
「そりゃあ、兄王の教えか?」
「兄様にできないことをわたしがするのよ」
 きっぱり答えると、アンジェラはパンをかじった。
「それよりオルト。連れて行ってほしい所があるんだけど」
「ああ?……いいや、そいつは駄目だ。きけねェな」
「どうして?」
 オルトは腕を組んだ。
「殿下にうろちょろしてもらうわけにはいかねェんだよ。危ねェだろうが」
「平気よ。ロビンもいるもの」
 アンジェラは引く気配を見せなかった。つり目気味の青い瞳がオルトを映す。
「サンマリア地方の領主にお会いしたいの。もう供養祭も近いわ」
「お姫さん、あのな」
 ロビンが椅子から立ち上がった。
「……お願いする」
 頭を下げた。
 オルトはそちらを見ようとはせず、机に頬杖をついた。
「お前さん、異邦人だな。どこの出だ?」
「生まれは、ディヴィーナ公国」
「歳は」
「十四」
 アンジェラと同じ歳だった。幼さの残る顔立ちをしている。
「……しょうがねェなあ」
 厄介なガキどもだ。オルトは苦々しげに一つ息を吐いた。



inserted by FC2 system