第一章◆小国
04
冷える朝だった。禁足地から流れ込む白い霧がサンマリアの街を端からゆっくりと包み込んでいる。
大通りの露店に品物が並び始め、朝の市場へ向かう人々の姿があった。鞄を背負った子どもが数人、競うようにして通りを駆け抜けていく。
天幕が張られた市場の向こうに石壁の教会堂が建っていた。遠目にもそれと分かる美しいステンドグラスが朝日に色を変えている。少し視線を上げれば、大きな鐘楼が霧の中にそびえていた。
重みのある鐘が、左右に振れた。
――カアン……。
その音にふと足を止めた者がいた。今まさに教会堂から出て行こうとしていた旅人が頭上を見上げた。煤けた外套を羽織り、車輪のついた黒色の箱を引いている。
旅人は帽子を脱ぐと胸に当て、教会堂に向きなおって祈りのために目を閉じた。
鐘の音が余韻を残して消える頃、旅人は出口へと歩き出す。
「……そこのお兄さん! ちょっと待ってくれ!」
教会堂の扉から転がるように飛び出したのは、見慣れない袴姿の少年だった。
一つにくくられた髪が跳ね、まるで犬の尾だ。
「お兄さん、旅の人だよな? 入国したばっか?」
少年は旅人に近づくとそう尋ねた。
「ああ、そうだが。……それが何か?」
突然話しかけてきた奇抜な格好の少年に、旅人はあまりいい顔をしなかった。肌がバター色である。しかも、腰には何やら見たことのない形の剣を二振りも差している。
少年が東大陸出身の異邦人であることは一目瞭然だった。
旅人の心中を察したのか、少年はことさら明るく笑った。
「いや、おれも王都から来たんだけど、道連れがいなくってさあ」
「だからどうした」
「聞きたいことがあって……こっちの言葉ではなんて言うんだっけ? えーと、確か……」
旅人はあからさまに眉を寄せた。
「悪いが先を急いでいる。他の奴に当たれ」
「えっ、あ、分かった! ノア北関所の行った方を言ってくれ!」
どうもこの国の言葉に慣れていない様子の少年は、ようやく答えを見つけ出したぞと顔を輝かせた。
ノア北関所への行き方を教えてくれ。
旅人は億劫だったがそう正しく理解し、懐から地図を取り出した。関所までの道順を説明すると少年は旅人に向かって大げさなまでに頭を下げた。
「助かった。ありがとう! じゃ、おれもう行くな! 旅路に気をつけてな、お兄さん」
そう言いながら走りだしていた。一度大きく手を振るとあっという間に市場へと姿を消した。
少年を見送る形となった旅人はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて荷物を引いて街に出た。
「……今、何か音がしなかった?」
アンジェラは馬上で体をひねり、背後を振り返った。しかしいる筈のロビンの顔は見えない。それ程の濃い霧が辺りに充満していた。
すでに禁足地の森の中である。壁と見間違えそうに太い幹を持つ巨木が左手側に立ち並んでいた。アンジェラたちの進むところはまだ森の入口で、日の光を遮る枝もそこまで多くはない。
遠く、関所の方角から犬の鳴き声が上がった。
「今のっすか? あれはうちで飼ってる犬ですよ。でかいやつもいるから、結構声も響くんすよね」
アンジェラの馬を先導していたギガが歩きながらそう言った。割合に余裕のある様子で口笛を吹く。
「ううん、犬の声じゃなくて、もっと近くから聞こえたわ。地面をひっかくような音だったけど……」
「馬の足音じゃないんすか?」
「そうねえ……」
アンジェラは顎に手を当て考え込む。馬たちの足音に耳をすませたが、やはり違うように思った。
さっきの物音は、もっと数の多い何かのものだった。
アンジェラの気配を察したロビンが森の奥に視線を向ける。
「んー、姫様、少し真面目な話してもいいすか」
「なあに? 魔獣のこと?」
ギガは首を横に振った。
「や、本当はまあ、俺が聞くことじゃないんでしょうけど。一応案内と護衛を仰せつかってるわけですし、なんでこの時期にノア家を訪ねられるのかなーって」
さりげなさを装っていたが、強い興味を感じさせる口調だった。
ノア家――サンマリア地方の領主を代々務めるこの貴族は、これまで王家と婚姻を結ぶことで一定の地位を築いてきた。現在のノア家当主とサンマリア領主を兼ねているのは先代国王の第一王妃だったローレンシア・ノア。アンジェラの兄、つまり現国王はローレンシアの息子である。
先代が没したのは、西大陸全土に広がっていた『大戦』が終結した年だった。七年前の四月七日のことである。
その供養祭はそれから毎年催されており、区切りの七回目がもう一週間後に迫っていた。どうしてこの時期に、とギガが疑問を持つのも無理はない。
アンジェラはゆっくりと口を開く。
「ローレンシア様に、供養祭へご出席いただこうと思って」
「……」
「王族の供養は七年の間行うのがこの国の習わし。父様の供養祭は今年で最後だもの。ローレンシア様にも王都へ来ていただきたいの」
ローレンシアはこれまで一度も先代の供養祭に出席したことがなかった。
「じゃあロビンは……なんで姫様と?」
「うん、彼とはサンマリアを出発する前、王都で会ったの」
ね、と同意を求めたがロビンからの返事はなかった。会話は聞こえてもお互いのいる場所すら霧で覆われている。
アンジェラはふうと息を吐いた。
「それにしても全然先が見えないわね。ギガ、道は分かるの?」
「慣れてますもん。足元の土の感触でなんとなく分かるっす」
ぼす、とギガが地面を蹴る音がした。
「禁足地って大体どこも腐葉土なんすよ。だから木も馬鹿みたいに育つし。布団の上歩いてるみたいっすねー」
ぼすぼすぼす、と足音が続く。アンジェラはそうっと体の重心を横にずらして足を伸ばした。
「あ、馬からは下りないようにお願いしまーす。おみ足汚れるっすよー」
しぶしぶ足を引っ込めたところで、頬に微かな風を感じた。
ロビンが馬を寄せてくる。森の奥を見据えたままだ。
苔むした巨木と巨木の間で空気が揺れる。生臭いにおいが急に鼻をついて思わず怯んだ。
「――アンジェラ、走って!」
ロビンが叫ぶ。アンジェラの馬を急き立て、背負った荷物から小さな銃を取り出した。
驚いた馬が高くいななき、後ろ足で立ち上がる。落馬しそうになったアンジェラを片腕ですくい取るようにしてギガが支えた。左手で手綱を掴み、自身の体を馬上へと引き上げる。
「姫様、落ちないでくださいよ!」
「ま、待ってギガ、いきなりどうしたの……、」
ギガの動きは速かった。馬の腹を蹴る。剣を引き抜く。
「走れ!」
二頭の馬の蹄が腐葉土に深く食い込み、跳ね上げた。がくがくと上下する視界でアンジェラはつい後ろを振り返った。
ギガの肩越しに馬で追いかけてくるロビンが見える。
さらにその背後に今しがた通った小道が見える。
――あれは……。
巨木の隙間に、毛の逆立った黒い生き物が蹲っていた。
血走った赤い目、丸太のような手足、四本牙を持つ顎。
熊の姿に似ていたが、熊ではなかった。
魔獣だ。