第一章◆小国
05
魔獣が一歩進むごとにずしんと重い足音がした。太い腕の先には黄ばんだ爪が指の数だけ伸びている。顔は黒い毛に覆われていた。そこに埋もれるようにして、目頭から眦まで真っ赤に染まった両目がぬらぬらと光っていた。
アンジェラは魔獣から目を離さなかった。その透き通った青い目は瞬きもせずに一点を見つめて動かない。
魔獣の動きは遅く、アンジェラたちとの距離はどんどん開いていく。
しかし魔獣が大きく口を開けて一声吠えると、あの生臭い嫌なにおいが魔獣の吐息とともに吹きつけてきた。
ギガはアンジェラの肩を掴むと正面を向かせて耳元で叫ぶ。
「魔獣と目を合わせないでください、とり憑かれますよ!」
さらに馬の足が速くなった。
ロビンも後ろを振り向かずにひたすら馬を走らせている。
「……でもギガ、そんなに焦ることないわよ。ねえ聞いてる?」
アンジェラは手を伸ばした。前方を凝視しているギガのピアスを軽く引っ張る。
「いたっ……ちょっと、こんな時に何するんすか姫様!」
「こんな時じゃないわよ。馬を止めてちょうだい」
「はあ?」
「平気よ。止めてちょうだい」
ギガは言われた通りにすると、馬首を巡らせて魔獣へ向き直った。
「ほら、大丈夫でしょ?」
アンジェラが指さす先にはもちろん魔獣がいた。が、随分と遠かった。馬より大きいと思った魔獣の体が拳大まで縮んでいる。ちらちら見え隠れする赤目も針穴のようにささやかだ。魔獣は現れた巨木の根元から殆ど動いていなかった。
「……あれ? もしかしてあいつ、全然追いかけてきてない?」
「ええ。なんだか動きが鈍いもの」
「な、何でっすかね?」
ギガは腕の中のアンジェラを見下ろす。
「そうね、今はお腹が空いていないとか……満腹のときにわざわざ狩りはしないわよね。ここの魔獣が人を食べるならの話だけど」
姫君はあくまで冷静だった。
「……もしかしたら、怪我をしているのかもしれない」
先程、大声を出したことはすっかり忘れた様子のロビンが付け足した。
手に握っていたはずの銃はまた荷物の中にしまわれている。
「やつらが怪我してるところなんて想像つかないっすけどー……」
ギガはもう一度魔獣に視線を向けた。
魔獣に襲われた同僚を知っているだけに、どこか納得できない光景だった。出会ってしまったらとにかく逃げろと教えられていたが、実際、目の前にした魔獣はのそのそとしか動こうとしない。
「これだけ距離があればもう大丈夫よね。とにかく行きましょギガ、ロビン。もうすぐローレンシア様の館に着くわ」
アンジェラが急かした。ギガは剣をおさめるとするりと下馬し、また轡をとった。
「アンジェラ。……平気なのか?」
ロビンは馬を横に並ばせながら尋ねた。
「うん、大丈夫。もう少しぐらい慌てるかなと思ってたんだけど」
アンジェラは自分でも不思議そうだった。
「色々話は聞いていたし……そのせいかな、あんまりびっくりしてないわね。ロビンはどう? 驚いた?」
「予想はしていたから……」
「気づくの、速かったものね」
緊張感もどこへやら、談笑する馬上の二人にギガは口を尖らせた。
魔獣を気にしているのか、馬の足取りは前へ前へと追い立てられているように進んでいる。ギガが付いていなければ乗り手に構わず走り去っているところだろう。悲鳴も上げず、自失することもなかった二人は何故だかギガとは離れた感覚を持っているようだった。
緩やかな曲線を描いて道を曲がっていき、だんだんと禁足地から離れていく。足元が堅い地面になると、前方に街を囲んでいる石壁が姿を現した。
その向こう側に頂上が鋭く突き出た尖塔がいくつか並んでいた。
「ギガ、あれは……、」
「はい、ノア家の館っす。着きましたね」
アンジェラの顔つきが変わった。少なくともロビンにはそう見えた。口元がきゅっと引き締まる。
石壁が築かれているのはノア家の館の近くだけだった。ここはサンマリアの中心部から離れており建物も少ない。もう少し先に行くと壁も途切れていた。
「そういえば、オルト隊長はもう先方には連絡してあるって言ってましたけどねー。さすがに裏の禁足地から来るとは思ってないっすよね。正面に回りますか……、」
そう言ったギガの動きが止まった。左手が剣の鍔にかかる。
「ギガ?」
アンジェラはギガを上から覗き込んだ。
石壁の影に添うようにして一台の馬車がアンジェラたちを待っていた。四頭立てのそれから一人の男が降りてくる。長髪に長身、壮年の年頃だった。
男は大股で近づいてくるとアンジェラの前で一礼した。
「お待ちしておりました、アンジェラ様。私はノア家の執事を務めておりますポーと申します。我が主人の命にてお迎えにあがりました」
ポーは顔を上げ、胡乱な視線でアンジェラを見据える。
「薔薇園にてお待ち致します。――我が主人ローレンシア様よりの言伝です」