第一章◆小国
06

 薔薇に埋もれた館だった。門に、塀に、花壇に、至るところ全てが薔薇に覆われている。花が咲く時期にはまだほど遠いはずが、この館においては一足早く春が訪れている様子だった。
 人気はなかった。形よく整えられた繁みの間に小道が通っている。
 ギガの隣ではロビンが薔薇に向かって手を伸ばしていた。花弁を散らさないよう、指で包み込むようにそっと触れている。端の方が寒さに当たって僅かに変色していた。
 ロビンは引き寄せられるようにあちらこちらの薔薇の前に立った。楽しいのか、とギガが尋ねると、楽しい、と端的に答えが返った。
「冬にも咲くものなんだなあ、薔薇って。こういうの好きなの?」
「……小さい頃、よく母が育てていたから。なんだか懐かしいような気がする」
「うわー、優雅。薔薇育てる暮らしなんて、俺なんか想像もつかないね」
 ロビンは覗き込んでいた白薔薇から顔を上げた。
「冬の薔薇もある」
「え?」
「ここにはそうでない薔薇も咲いているようだけど……元々、冬は剪定をしたり、肥料をやったりする季節なんだ。芽が眠っている間に形を整えておかないと、枝が絡まって病気になったりする」
「花にも病気があんの?」
 ここ数年、感冒さえ引いた覚えがない。咳するわけでも、発熱するわけでもない植物の病気など、一層分かりづらかった。
 ギガがそう言うと、ロビンは首を傾けて皮膚病のような感じ、と説明しなおした。
「ああ、それならなんとなく分かるかも」
 背筋を伸ばして館の方を眺めた。ポーに案内されて館の中に入って行ったアンジェラはまだ戻ってきていなかった。
 先代国王とその第一王妃ローレンシアは政略結婚だったという。先代は後に、第二王妃とも結婚しており、ローレンシアとの夫婦仲は冷えたものだったとの噂がある。
 最後の供養祭とはいえ、今まで頑なに出席を拒んできたローレンシアが今更アンジェラの言葉を聞き入れるとは考えにくかった。
「隊長たち、うまくやったかなー……」
 ひゅう、と口笛を吹いた。
「痛、」
 不意に、薔薇の影から間の抜けた女の声が上がった。
 ギガが首を伸ばすと、薔薇の枝に赤毛の髪を引っ掛け、とろうと四苦八苦している侍女がいた。黒いスカートに白いエプロンと、服装だけなら上品に見えるものの、動作がぎくしゃくとしていてぎこちない。
 侍女はエプロンのポケットから大きな鋏を取り出すと、何の躊躇いもなく絡まった自身の髪に刃を当てた。
「ちょ、ちょっとタンマタンマ! 何してるんすか、あんた。髪切ってどうするんすか」
「え……あっ、」
 駆け寄って鋏を取り上げる。侍女はギガを見上げて目を丸くした。
「あなたは……」
「髪解きますんで、動かないでくださいねー。うわ、千切れそう」
 細い赤毛だった。軍の制服を着ているギガに驚いたのか、侍女は髪が解けるとすぐにぴょんと横に飛んで恐縮した。
「あの、すみませんです。私、髪がごわごわしているもので、よく引っ掛けるんです。薔薇のお手入れ中も同じことしちゃったり……ええと、ありがとうございます」
 そう言って頭を下げる。
「いや、別にいっすけどね。はいこれ」
 侍女に鋏を手渡すと、再度礼をされた。
「私、アガサと言います。この館でローレンシア様のお世話をさせていただいている者です」
「あ、俺はギガっす。で、こっちが」
 ギガが片手で示すと、ロビンはそつなく会釈をした。
 見た目の歳とは違って落ち着いた物腰にアガサは目を瞬いた。
「……ロビンと言います。初めまして」
「は、初めまして」
 ギガがロビンに何とも言えない歯がゆそうな顔を向けた。
 ロビンは首を傾ける。
「何か……?」
「や、何でもない何でもない。それより、ここの薔薇って全部アガサさんが手入れしてるんすか?」
「はい、ええと、そうです。館にはほんの数人しか人がおりませんから」
 アガサはあっさりと頷いた。だが、館の庭先に足を踏み入れただけでこの薔薇の量である。奥にある薔薇園の広さも考えると、半端な量ではない。
「ふうん、すごいっすねー。庭師なんかは雇ってないんすか? 大変でしょ、この薔薇の数じゃ」
「ローレンシア様はあまり館に人を入れたがられないのです」
 言ってから、アガサはあっ、と口を押さえた。
 ギガは笑って顔の前で手を振った。
「いいっすよ、俺らに気を使わなくても。客っつーより、ただのおまけとして付いて来ただけなんで」
「では……あのお嬢様のお付きの方ですか。金髪で、青い瞳をしてらした」
「そうそう、そのお嬢様の護衛みたいなものっす」
 アガサはそう言うギガの顔をじっと見つめ、それから薔薇へと向き直った。寒さで萎れた葉を鋏で切り取り始める。
 ロビンがするりとギガの前へ出た。
「ローレンシア様が、人を館に入れたがらないというのは、どういったことなのですか」
「ロビン?」
 ギガが呼びかけても、ロビンは振り返らなかった。アガサに向かって澱みなく言葉を重ねる。
「今までずっと、供養祭にご欠席されてらっしゃると聞きました。お体の具合でもお悪いのですか」
 アガサは一輪の薔薇に指を添えた。
「ええ……その通りです。供養祭も、それが理由でご出席は控えてらっしゃいます。人を館に入れられないのは、ご負担を少しでも避けるためです」
「……それほどのご病気なのですか」
 ロビンはまた尋ねた。口数の少ない少年が、妙に食い下がる。
 ギガはその様子を視線だけで窺った。ロビンの旅装束は汚れていた。
「ローレンシア様は、もうずっと館の外にお出になられません。お心のご病気なのだと思います。ポー様以外とは、誰ともお会いになろうとされませんから……」
「そうなんすか? 誰とも?」
 思わずギガは声を上げた。
「ローレンシア様はノア家のご当主じゃないっすか。そんな話、本当なら大事でしょ」
 ロビンがちらりと館の方に視線を投げた。薔薇から手を離し、アガサはほんの少しだけ頬を緩める。
「ですから今日、私も本当に驚いたんです。この館にお客様なんてとても久しぶりです。もしかしたら、お体の具合がよくなっていらっしゃるのかもしれません」
 侍女であるアガサも、もう長い間自分の主人と会っていなかった。
「……献身的っすねえ……」
 ギガはまじまじとアガサを見つめ、小さく呟いた。
 黒と白の洋服が、色鮮やかな薔薇の横にもすっきりと映えて見える。
 ロビンは館を振り返り、一歩後ろへと下がった。
 薔薇の小道をこちらへと歩いてくるアンジェラがいた。



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