第一章◆小国
07

「おーいしー!!」
 パン屋の店先でクロワッサンに齧りついたアンジェラは、ぱっと笑顔になっておかみさんを振り返った。
「これ、とてもおいしいわね、おかみさん! もしかして焼き立て?」
「まあね、うちの店の目玉商品の一つだよ」
 パン屋のおかみさんはにこにこと愛想よく笑うと、人数分の紅茶を盆に載せて持ってきた。差し出されたそれを、ベンチに座ったアンジェラがお礼を言って受け取る。
 ロビンもその隣でクロワッサンを食べていた。二頭の馬を連れているギガは少し離れた街路樹の下でサンドイッチを頬張っている。
 ローレンシアの館を出たあと、そろそろ昼時だということで街の市場まで足を伸ばしていた。
「ほんとーにこのクロワッサンおいしいわ。ほんのり甘くてバターの香りがしてる。ね、ロビン」
 同意を求められ、ロビンはもぐもぐと口を動かしたまま頷いた。
 アンジェラはおかみさんを見上げると、ぴっと人差し指を立てる。
「ね、おかみさん。このお店で使っているお水って、ノア山脈のメアリー湖のじゃない?」
「おや! よく分かったね、その通りだよ」
 おかみさんが驚いたのを見て、アンジェラは得意げに胸を張った。
「メアリー湖のお水は少し甘いって聞いたことがあるもの。サンマリアならすぐに汲みに行ける距離だし。おかみさん、このクロワッサンもう一個ちょうだいな」
「姫さ……じゃなかった、お嬢様ったら食べ過ぎっすよー。太っても知りませんからねー」
 膝の上にまだ他のパンが残っているにも関わらず、追加注文するアンジェラにギガは呆れ気味に言った。護衛の立場としてはのんびりするわけにもいかず、馬たちと一緒に立ったまま食べている。
 アンジェラは両足をぱたぱたと動かした。
「今のは持って帰る分なの。お土産なの。わたしが食べるんじゃないからいいのー」
「はいはい。分かったっすよ。……まあ、それでも食べ過ぎだと思うけど」
「なあに、ギガ。何か言ったかしら?」
「いいえー、なあんにも言ってないっすよー」
 じろ、と大きな瞳で睨まれたのを、ギガはそっぽを向いてやり過ごす。
 全てパンを平らげ、お土産のクロワッサンが入った紙袋を受け取って、ようやくアンジェラはベンチから腰を上げた。
 おかみさんに手を振る。
「じゃあね、おかみさん。おいしかったわ。ごちそうさま!」
「毎度。また今度寄っておくれ」
 アンジェラはロビンとギガを連れ、上機嫌で市場を歩いて行った。天幕を張った店が両脇に並び、果物や野菜、酒や服まで売られている。街の人々が大勢行き来し、売り声も賑やかだった。
 辺りを物珍しそうに覗いていくアンジェラに聞こえないよう、ギガはこっそりとロビンに話しかけた。
「なあロビン。姫様、あの後何か言ってた?」
「……館を出てからは、何も」
 ロビンは前を向いたまま答えた。
「てことは、やっぱり断られたってことかー。だよなあ」
 手綱を引く手とは逆で、がしがしと頭を掻く。ローレンシアへの説得が失敗したのなら、大人しく王都へ帰ってもらえるだろうと思った。
「供養祭ももう……あと一週間だっけ? 王都まで二日かかるから、もう明日ぐらいにはサンマリア出発したほうがいいかもなー」
「アンジェラは……諦めてないと思う」
「うん? でも実際、時間ないだろ?何で?」
 ロビンはゆっくりと顎に手を当て、暫く考え込んだ。
「……勘?」
「意外に適当だな、それ」
 と、その時、花の香りがして二人は顔を上げた。
 いつの間にかアンジェラは腕一杯に大きな花束を抱えて、花屋の売り子らしき少年と話しこんでいる。楽しそうだったが、明らかに買いすぎである。
「……ちょっとお嬢様ー。何やってるんすか」
「何ってお買いものよ。この花綺麗でしょう? あ、ありがとうアレート。代金はこれで足りるかしら」
 そう言ってアンジェラが銀貨を二枚渡すと、アレートと呼ばれた売り子はぺこりと礼をした。
「毎度ありがとうございます! うちの花は特別長く咲きますけど、出来たらメアリー湖の水で活けてやってくださいね」
 アレートはふわふわとした茶色の髪をしていて、笑うとアンジェラやロビンと同じ歳ほどに見えた。大量に売れたのが嬉しかったのか、花屋から遠ざかっても、アンジェラたちに向かってずっと手を振っていた。
「あーもー、まだ手、振ってますよあいつ。こんなに買ってどうするんすか、姫様。花は食えないっすよ?」
 ギガはひょいっと片手で花束を取り上げた。
「失礼ね。さすがに花を食べたりしないわよ。折角だから、サンマリア教会堂に寄って行こうと思ったのよ」
 髪や服に付いた花粉を叩きながら、アンジェラが指差した先には、ステンドグラスが煌めく石壁の教会堂があった。
 湖水地方サンマリアは、国教であるアルサティア教の巡礼地でもあった。

 正午を告げる鐘が鳴り響いているのを、アンジェラたちはフィラに教会堂の中を案内されながら耳にした。アンジェラやギガはともかく、異邦人であるロビンはその鐘楼を不思議そうに見上げていた。
「驚いた? ロビン。教会堂の鐘はね、街によって音色が違うの。ここのはサンマリア地方では一番大きなものなのよ」
 回廊を渡りながらアンジェラが言った。先導するフィラに話しかける。
「ね、フィラ。そうですよね」
「はい。その通りですよ。お嬢様はお若いのによく勉強していらっしゃるのですね」
 物腰穏やかに返事をしたフィラは、白色の祭服に身を包み、振り香炉を手にしていた。
 ロビンが首を傾ける。
「フィラというのは……」
「神官様のことよ。アルサティア教では、聖典を読み綴る者として語り部、つまりフィラと呼んでいるの」
 そのフィラが導いたのは礼拝室だった。丸天井のちょうど中心から鎖が垂れ下がり、先端にフィラが持っていたのと同じ形をした香炉が吊られていた。しかし、こちらの香炉は水晶で出来ていて、中が透けて見えた。
 更にその下に、丸い泉が床を掘って造られていた。フィラはその前の祭壇に振り香炉を置いた。
 ギガから花束を受け取ったアンジェラは、それをフィラに差し出した。
「では、エリックを」
 フィラは花束を泉に浸した。そこでようやく泉の水面が波立った。
 何度か振り香炉を円を描くように掲げたあと、花束を祭壇に載せる。
 花弁から水滴がぽろぽろと零れ落ちた。
「エリックというのは償いの意味なの。神々への供物を捧げることをそう言うのよ。本来なら湖に投げ入れるんだけど、教会堂の泉だと沈んだら取り出せなくなるから」
 アンジェラは泉の縁へ立ち、ロビンを手招きした。
 泉は大の大人でも全く足がつかないほどに深かった。アンジェラの身長の二倍はある。
 ロビンは泉の底に何か石板が嵌められていることに気がついた。
「あれは……女の子?」
「アルサティア教の神々の中心にいらっしゃる方ですよ。私たちはガ=ロサとお呼びしています。終わりの少女という意味ですよ」
 フィラがロビンの横に立った。石板には髪の長い、目を伏せた少女の像が彫り込まれていた。
「アルサティア教では、神々の世界は湖底にあると考えています。人が死後、還るのもそこです。湖底の国、フィアナと言うんですよ。ですからガ=ロサの像もこうして泉の底にあるんです」
 アンジェラが振り返り、泉から離れていたギガを呼んだ。
「ギガ、あなたもこっちにいらっしゃいよ。どうしたの?」
「いや、俺はいいっす……隅っこのほうにいるんで、気にせず続けてください」
 いやほんと、と蚊の鳴くようなか細い声で言いながら、ギガはじりじりと後ずさった。
 顔を泉から背け、視界に入れないようにしている。
 アンジェラはロビン、フィラと順々に顔を見合わせると、再びギガのほうを向いた。
「……もしかして水が怖いの?」
「怖いっていうか……!」
 ギガはまるで親の敵を目の前にしているような表情を浮かべた。
「腰ぐらいまでの深さならいいんすよ! でも、その泉は絶対足つかないじゃないすか! 子どもの頃落ちて溺れてから、駄目なんすよ、近付いたりとか……!」
「ああ……たまにいらっしゃいますね、落ちてしまわれる方。柵とかないですからねえ……」
 フィラが苦笑いして泉とギガを交互に見た。泉の縁には植物の模様が装飾されているだけで、段差も何もなかった。
「今朝もお二人ほど、旅の方がお出でになったのですが、一人、危うく落ちそうになっていらっしゃいましたね」
「あら、巡礼の方が?」
 アンジェラが聞き返すと、フィラがいやいや、と首を横に振った。
「異国の方ですよ。何でも、各地の教会堂を訪ねて回っているとかで。まだお若い方でした」
「異国というと……」
 ロビンがちらりとフィラを見上げた。フィラが微笑するとすぐに視線を外す。
「我がサンマリア教会堂は、どなたであろうとその訪れを拒むことはありません。例えばそれが東大陸のヒトであってもですよ」
「……失礼を」
 ロビンは軽く頭を下げた。
「ねえ、フィラ。その泉に落ちかけたっていう異国の方って、もしかして……」
 アンジェラが続けようとしたとき、回廊を荒々しく走る足音が聞こえた。近付いてきたそれは、礼拝室の扉を勢いよく開き、中に飛び込んできた。
「フィラ! 大変だ、怪我人が出た!」
 叫んだのは泥だらけの少年だった。フィラに駆け寄ってその腕を掴む。
「アレートがやられた! すぐにこっちに運ばれてくる! フィラ、治療を、」
「やられた? また出たのですか?」
 少年は何度も頷いた。
「フィラ? 出たって、一体何が?」
 フィラは穏やかな表情を消し、眉を寄せていた。振り香炉に乳香と水晶の粒を入れる。
 アンジェラに向けて言う。

「――魔獣です」



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