第一章◆小国
09

「こんちはー。ごめんくださーい」
 ギガが家の扉を数回叩くと、中から細い女性の声で返事があった。かちゃりと扉を開け、顔を出したのはアレートの母、ナリアである。
 ナリアはショールをしっかりと肩に巻きつけた姿で、ギガを見るとまあ兵士さん、と驚いた。
「ノア北関所のギガっす。アレートのお母様っすか?」
「ええそうです。ナリアと申します。あの、息子が何か?」
 ナリアは息子と同じふわふわとした茶色の髪をしていた。その戸惑いの視線がギガを見つめ、次いでアンジェラに移る。
「こんにちは、ナリアお母様。アンジェラといいます。お会いできて嬉しいわ」
 アンジェラが挨拶すると、ナリアはますます混乱したようだった。兵士と少女の組み合わせはなかなか目にする機会がない。
「まー、お気持ちはよーく分かるんですけど、ここで説明するのもあれっすから、話は中でいいっすかね?」
 ギガはそう言ってナリアを促した。

 通された居間はこぢんまりとしていて、母子二人の細々とした暮らしが見て取れる。お世辞にも片付いているとは言えなかったが、机の上に置かれた花瓶にたくさんの花が活けてあり、それが室内を明るく彩っていた。
「あ、そうだわ。お母様、これどうぞ。パン屋さんで買ってきたものだけど」
 アンジェラはクロワッサンの紙袋をナリアに差し出した。
「まあ、わざわざありがとうございます。どうぞお座りくださいな。今お茶をご用意しますから」
「いいのよお母様。お体の調子が悪いのに無理しないでちょうだい」
 台所に向かおうとしていたナリアを引き止め、椅子に腰を下ろさせる。ギガはアンジェラの後ろ、居間の入口に控えていた。
「急にお邪魔してごめんなさい。アレートのことをお知らせしなきゃと思ってお伺いしたの」
 ナリアは膝の上で両手を組む。
「息子は花屋に勤めております。今日も朝早くから出かけて行きましたが……何があったんでしょうか」
 アンジェラは困ったように微笑した。
「怪我をしてサンマリア教会堂で治療を受けているわ。でも命に関わるようなものではなくって、夕方には戻ってこられるの。心配なさらないでね」
「アレートが怪我を? ――喧嘩でもしたんでしょうか」
「いいえ、喧嘩で怪我をしたわけじゃないのよ。畑にいたところをたまたま魔獣に襲われたらしいの」
「そうですか……」
 ナリアはほっと息を吐いた。しかし、次の瞬間体を折り曲げて激しく咳き込み、頭が机の下に潜ってしまった。
 アンジェラは慌ててナリアに駆け寄る。
「お母様! ――ギガ、すぐにお医者様のところにお連れしないと」
「了解っす」
 ギガが居間を出て行こうとしたとき、ナリアが口元にショールを当てつつも体を起こした。
「い、いえ、待ってくださいな。いつものことですから、大丈夫です」
「でもお母様、」
 アンジェラははっと息を飲んだ。ショールがずれて顕わになったナリアの首筋に、黒い斑点がいくつも浮かび上がっていた。
 それは『斑熱病』を患っている証だった。
 皮膚に浮かび出た黒い斑点が発熱し、体温が一定しなくなる病気である。治療には皮膚ごと斑点を取り除く他なく、それには医者が不可欠だった。
「斑熱病っすか……」
「……こんな体ですから働きにも行けません。アレートにばかり不憫な思いをさせてしまって……」
 ナリアは俯いた。柔らかな茶髪が首筋に垂れたが、黒い斑点を隠し切るまでには至らなかった。むしろ、肌の白さと相まって余計痛々しい。
 斑熱病は感染する。しかしどのようにして人から人にうつっていくのかは分かっていない。
 アンジェラは咳き込むナリアの肩にショールを掛け直した。
「ねえお母様。お夕飯はいつも、誰が作っているの?」
「ア、アレートが作ってくれていますけど……」
「なら、今日はわたしが代わりに作るわ。アレートは怪我をしているし、お母様は休んでいないといけないし。いいでしょ?」
 ナリアは目を瞬いた。
「でもアンジェラさん……お客様にそんなことまでしていただくわけには」
「わたしがやりたいの。ご迷惑にはならないようにするわ」
 視界の隅ではギガがお嬢様何考えてるんすか!と慌てていたが、アンジェラは構わなかった。ここでアンジェラたちが帰れば、ナリアはアレートが戻ってくるまで一人で過ごすことになる。
「一人きりは淋しいものよ。お母様と一緒にいたいわ」
 病気を患う母親は、アンジェラを見つめて嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ……お願いします。ありがとう、アンジェラさん」
「まかせて!」
 アンジェラはにっこり笑った。ギガを振り返る。
「それじゃギガ、今から言う材料の買い出しに行ってきてちょうだいな。わたしはその間お掃除をしているから。あ、お風呂の用意もしなきゃいけないわね。お母様は休んでいてね。準備が出来たらお呼びするわ」
 言いながらアンジェラは腕捲りをしている。一向に姫君らしくない姫君だ。
「もー、なんでこう、怖いもの知らずなんすかねー」
 ギガは大きく溜息を吐いた。

 ローレンシアの館には書庫がある。読む人間といえばローレンシアと、その他彼女に仕える使用人ぐらいなものだったが、多くの書物が書庫に集められていた。
 ポーは主人に頼まれた本を探して書庫の扉を開いた。立ち並ぶ本棚の間を迷いのない足取りで歩いていく。
 手に取ったのは読書家のローレンシアがもう何度も繰り返し読んでいる本だった。手袋を嵌めた手で背表紙をなぞり、ふと、窓の外に目をやった。
 広い窓からは薔薇の咲き誇る庭が見えた。赤毛のアガサが花たちの手入れをしている。
 するとポーは無言で踵を返し、足早に書庫を出て行った。自室に立ち寄り、本と引き換えに細身の剣を一振り持ち出す。
 剣を片手に、階段を降りていく足取りに迷いはなかった。

 館の正面にある庭にはアガサがいた。人目を避けるなら小さな教会堂のある館の裏手に行くしかない。そこには今ローレンシアが一人でいるはずだった。
 ロビンは薔薇の繁みに身を隠し、物音を立てぬよう、教会堂へ近付こうとしていた。
 薔薇の香りが咽返りそうなほど濃い。ここからでは教会堂の中にいるローレンシアの姿は見えなかった。
 もっと傍に近付こうと身動きしたとき、背後に気配を感じた。
 首筋に冷え切った剣の切っ先が当てられる。
「――何者ですか」
 恐ろしく低い声でポーが尋ねた。ロビンに突き付けた剣はそのまま動かない。
「ここをサンマリア領主ローレンシア様の館と知っての無礼ですか。子供とはいえ、忍び込むなど許されることではありません」
「……ローレンシア様にお目にかかりたい」
 ロビンは振り返らずに答えた。少しでも動けば躊躇いなく斬る。ポーの気配がそう物語っていた。
「生憎と主人は病床に伏せっておいでです。お引き取りを」
「ディヴィーナ公国についてお話したいのです」
 ポーは目を細めた。少年の背中をきつく見下ろす。
「先の大戦でディヴィーナに軍を出したのはローレンシア様だと……そう耳にして確かめに来ました」

「ディヴィーナ公国は既に滅んだ国です」

 突き放すようなポーの言葉にロビンは黙り込んだ。
「ディヴィーナの生き残りが敵討ちに来るとは……これが最後の警告です。どうぞお引き取りを」
 首筋に当たる切っ先に力が入った。
「……時間がないのです。どうしても今……」
「二度は――言いません」
 ポーが斬りかかった。ロビンは体を伏せ、転がるようにして避ける。
 荷物から銃を取り出したが、その銃口を向ける前にポーの剣が薙ぎ払った。銃はロビンの手から弾かれ、地面に落ちる。
「主人に手出しはさせません。誓約にかけても」
 静かに、しかし力強くポーは剣を振り上げた。
 ロビンが身構える。
「――ポー様? どうかなさったのですか?」
 突然、背後からかけられた声にポーの気が僅かに逸れた。その一瞬を逃さず、ロビンは銃を拾い、すばやくその場から逃げ去った。
 ポーは追いかけようとして、ロビンの背が薔薇の繁みに消えていくと剣を鞘に収めた。
「ポー様、今何か物音が……」
 声の主はアガサだった。ぱたぱたと足音を立てて駆け寄る彼女を手で制す。
「後で話します。今は仕事に戻りなさい」
「は、はい……畏まりました」
 剣をちらちらと横目で見ながらも、アガサは一礼して庭に戻って行った。
 ポーは教会堂を振り返った。すぐに本を取りに自室へ向かう。
 ローレンシアは一度も姿を現さなかった。



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