第一章◆小国
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 紙切れに書かれた食材の多さに驚いた。これお願いね、と嬉々としてアンジェラがギガに渡したものだったが、一人で買ってこられる量ではない。ギガはアンジェラのいる台所を覗き込んだ。
「ちょっとお嬢様ー。これ、夕飯一食分にしては少し買いすぎじゃないっすか? ナリアさんとアレートだけじゃ食べ切れないっしょ」
「あら、五人分だからちょうどいいはずよ?」
 アンジェラは戸棚から皿を出していた。きちんと五枚揃えると、今度はコップを探し出す。
「お母様にアレートでしょー、あとはわたしとーギガと―ロビンとーこれで五人でしょ。あら、コップが1つ足りないわ」
 戸棚の奥を覗き込み、小首を傾げる。ギガはそのアンジェラの後ろから戸棚の上に手を伸ばし、コップを一つ掴み取った。アンジェラの身長では見えないし届かない。
「あら、ありがとうギガ」
「いいえー。でも姫様、真面目な話してもいいっすか」
 居間にちらりと視線を投げる。ナリアは二階の寝室で休んでいた。
「いいわよ。なあに?」
「護衛の立場から言わせて頂くと、正直姫様にはすぐに関所にお戻りになって頂きたいんすけど」
 アンジェラは顔を上げ、ギガと視線を合わせたが何も言わずに続きを促した。
「人助けは立派っすけど、それで姫様が斑熱病にかかったりしちゃ大変でしょ。そんなことになったら俺の首飛んじゃいますよ。さすがに本気で」
「うーん、まあそうよね。物理的に飛んじゃうわね」
 そう言いつつ、アンジェラは布巾を取り出して皿とコップを磨き始めた。
 ギガは困ったな、と頭を掻く。
「やっぱりお医者様が少な過ぎるのよね、この国は。だから治療やお薬が高価で手に入らなくなっているのよ。実感したわ」
 アンジェラはむう、と唇を尖らせた。
 王都セントセシリアでさえ医師の不足は問題となっている。サンマリアのような地方では尚更だ。
「かといってすぐに増やせるものでもないし……国の援助がいるわね。効率よく進めるにはどうしたらいいかしら」
「姫様、その皿さっきも磨いてたやつっすよ」
 ぶつぶつ呟くアンジェラの手から皿を奪い取って横に置く。代わりに別の皿を手渡した。
「医者のことはともかく。俺の首のためにもお戻りいただけないっすかね?」
「平気よ。わたし健康には自信があるもの」
「そんな年寄りみたいなこと言わないでくださいよー。そもそもアレートとはさっき市場で会ったばっかりじゃないっすか。何でそんなに気にかけるんです?」
 ギガは兵士だ。魔獣や暴漢から身を守る分ならともかく、原因不明の病気となるとお手上げである。
 アンジェラはそうね、と相槌を打った。
「お夕飯やお掃除ぐらいならわたしにも出来るもの。それがナリアやアレートを助けることになるならやりたいと思うのよ。やらせてもらえないかしら」
 すっと上げられた青い瞳を真正面から見てしまい、ギガは思わずたじろいだ。
「……もー、しょうがないっすねー。お偉い方ってなんかこう、自分のことばっか考えて動くもんだと思ってたんすけどね。付き合わせて頂きますよ」
 と言った途端、はたと思い止まった。しかしもう遅い。
 アンジェラはにこにことしながら例の紙切れをギガに差し出した。
「ありがとうギガ。じゃあ買い出しも頑張って行ってきてちょうだいな」
「いや姫様、それ五人分でも量多いと思うんすけど。俺一人じゃ無理ですってば」
「馬も連れて行けばいいんじゃない? 荷物運んでくれるわよ」
「そりゃそーですけどー……」
 なんとなく腑に落ちない気分で紙切れを受け取る。ロビンを連れて行こうとも思ったが、姿が見えなかった。
「姫様、ロビンの奴どこ行ったんすか? 教会堂にもいませんでしたけど」
「街を見て回りたいって言ってたから、散歩でもしてるんじゃないかしら。フィラに言付けはしておいたわ」
 アンジェラは水場に置いてあった瓶を手に取り、逆さに振った。空だった。
「あら、お砂糖がないわね。ギガ、これも買ってきてね」
「はいはーい。姫様、すぐに戻ってきますからあちこち出歩かないでくださいよ」
 ギガはアンジェラに念を押し、それから台所を出て行った。


 ギガが食材を買ってくるまで掃除でもしておこうと、アンジェラは叩きを手に取った。居間の棚には裁縫箱や布地、毛糸に釦とナリアのものだと思われる道具や、使い込まれた本が何冊も仕舞われていた。そのうちの一冊を開くと、頁のあちこちに水が染みた跡があった。隅の方には整った字で書き込みもしてある。
「あら?」
 棚の引き出しを開けたとき、中から鉤針と白いショールが出てきた。ナリアが羽織っていたものとは違い、細やかなレースで編まれたものだった。
「綺麗……お母様のかしら?」
 手にとってよく見ようとしたとき、玄関のほうでとんとん、と扉を叩く音が聞こえた。ごめんください、と男の声もする。
「ナリアさん、いらっしゃいますかあ? 大家の使いできたんですけどー」
 アンジェラが扉を開けると、三人の若い男が立っていた。
 家から出てきたアンジェラを見て驚いたような顔をする。
「あっれ、この家に若い女の子いたっけ? 息子と母親の二人暮らしって聞いてたんだけど。なあ?」
 一人がそう言うと、他の男たちもそうだそうだと頷いた。三人とも小さな鏡のようなものがついた腕輪をしている。
「わたしはアレートのお友達よ。あなたたちはここの家の人にご用事かしら?」
 すると、右端にいた男が吹き出した。
「“ご用事かしら?” こいつ、何お嬢様ぶってんの? 馬鹿?」
「おいフレック、お前は黙ってろよ。お嬢さんが怖がってんだろ」
 腹を抱えて笑う仲間を、黒髪の男が肘で小突く。
 中心に立っていた男は仰々しく膝を折り、アンジェラに向かって頭を下げた。
「悪いねお嬢さん。俺らはこの家の大家さんのお使いで来たんだよね。ナリアさん呼んでくれないかなあ?」
「大家さんの? そう、ならすぐにお呼びするわ。あなたのお名前をお聞きしてもいいかしら」
 男はにこりと笑った。アンジェラは扉の取っ手に手をかける。
「俺? 俺はロリス。そっちの笑い上戸がフレックで、こっちの黒髪がノイズ。あ、ノイズね、こう見えて案外手が早いからお嬢さんも気をつけてね」
「ぶっ、言えてる! ノイズお前、幼児趣味かよ!」
 フレックがまた笑いだした。ノイズが睨む。
「煩いんだよお前は。力づくでその口閉じさせてやろうか?」
「へー、出来んのかよ?」
 言い争いを始めた二人をロリスは困ったように眺めていた。アンジェラは三人の顔を順々に見つめ、一つ頷く。
「ロリスにフレックにノイズね。分かったわ。少し待っていてもらえるかしら。ナリアお母様をお呼びしてくるから」
 そう言って閉めようとした扉の隙間に、ロリスが素早く片足を突っ込んだ。アンジェラが両手で取っ手を引っ張っているにもかかわらず、ロリスは楽々と扉に手をかけ、隙間をひろげようとする。
「その前にさあ、お嬢さん。お嬢さんのお名前聞かせてもらえるかなあ」
 ロリスの表情は半分扉に隠れて見えなかった。
 アンジェラはにこりと笑った。
「あなたと同じ名前よ。わたしもロリスというの」
「へえー、すごい偶然だね。ナリアさんもそう思いませんか?」
 振り返ると、いつの間にかナリアが二階から降りてきていた。階段の手摺に凭れるようにして立ち、顔色が真っ青だった。
 ロリスはねっとりとした猫なで声で呼びかける。
「元気そうですねナリアさん。用件分かりますよね? いい加減家賃払ってくれませんかねえ?」
「あっ!」
 力任せに扉を開いた。勢いでアンジェラも外に飛び出す。
「あ、悪いね。つい力入っちゃって。大丈夫かな、ロリスちゃん」
 転んだアンジェラを見下ろし、ロリスが笑う。フレックとノイズは家に押し入り、抵抗するナリアを引き摺り出そうとしていた。ショールが剥ぎ取られ、床に落ちる。
「やめて! お母様はご病気なのよ! 乱暴しないで!」
「外で話そうってだけだよ。ロリスちゃん、ちょっと静かにしててくれないかなあ」
「家賃の取り立てならもっと穏便にすべきよ!」
 アンジェラはきつくロリスを見据え、立ち上がった。
「こんなの不当よ。ちゃんと――、」
「静かにしてろって言ったんだけどなあ」
 ぱん、と頬を叩く音がした。
 アンジェラは左頬がゆっくりと熱を持つのを感じた。
 ナリアが悲鳴を上げる。
「あのねロリスちゃん。俺は黙ってろって言ったつもりだったんだよね。聞こえてた? もしかして本当に頭悪い? ならもう一発いっといたほうがいいよね」
 拳を握った右手が振り上げられた。

「――あ、姫様見っけ」

 その言葉と共に、ロリスとアンジェラの間に一人の少年が割って入った。異国の服に二振りの刀を差した異邦人だった。
 アンジェラが驚いて異邦人の名前を呼ぶ。
「な――なゆた?! ど、どうしてこの街にいるの?」
「よっす姫様。迎えに来たぜー」
 なゆたと呼ばれた異邦人はにかっと歯を見せて笑った。一つ結びの髪がくるりと跳ねる。
「遅くなってごめんなー。おれ、サンマリアに来る途中、道に迷っちゃって」
 なゆたはアンジェラを背中に庇うと、ロリスに向かい直った。腰の刀に手を添える。
 フレックとノイズは明らかに怯んだ。が、ロリスは突如現れた異邦人をもの珍しそうに上から下までじろじろと眺めていた。
「ふーん、君、東大陸の人間? 初めて見たなあ、俺。ねえこれ、どういう服?」
 なゆたの目の前に立ち、その衿に触れた瞬間。

 視界が反転し、ロリスは宙を舞っていた。

「姫様、とりあえずこいつらやっつけ……えーと、やっつけてたほうがよい?」
 なゆたはロリスを放り投げた左手でフレックとノイズを指差した。
「そうね、なゆた。お願いするわ」
 アンジェラが言うと、二人は逃げ腰になって後退りした。なゆたは対して身動きしていない。ロリスが自分から引っ繰り返ったようにしか見えなかった。
「よっしゃ。なあ兄ちゃんたち、おれと手合わせしてくれよ」
 不敵に笑って構える。
 なゆたは異邦人でありながら、アンジェラに付くことを許された護衛兵の一人だった。



(ロリスは道化者の意)

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