第一章◆小国
12

 ロリス達を追い返したすぐあとに、ギガが買い物から戻ってきた。異邦人のなゆたに驚いたようだったが、事の成り行きをアンジェラが説明すると「はー、そうっすか」とすんなり納得した様子だった。
「……あら、それだけなの? ギガ」
 東大陸の人間を嫌がるかもしれない、と思っていたアンジェラは拍子抜けしてギガを見上げた。
「まあ東大陸の異邦人を見たのは初めてっすけど。あのなゆたって強いんすか?」
 ナリアと家の中に入って行ったなゆたを指差す。
「強いわ。さっきだってロリス達三人を一瞬でやっつけちゃったもの」
「じゃー俺的には何も問題ないっす。強い奴と手合わせするのが趣味なんで」
 そう言ってギガは歯を見せて笑った。アンジェラもくす、と笑いを零す。
「でも俺の活躍の場が無くなったのは不満ですかねー。姫様があんなに買い物させるから遅くなったんすよ」
「人数が一人増えたんだからたくさん買っておいてよかったのよ。さ、早くご飯作るわよ」
 買い物袋をギガから受け取り、アンジェラは台所へと戻って行った。


「何これすっげーうまい! 姫様おかわり! うまい!」
 夕食の準備が整うと、人一倍旺盛な食欲を見せたのはなゆただった。一人前を早くも平らげると、空の器をアンジェラに差し出す。
「姫様って料理上手なんだなーおれ感動した!」
「なゆたったら大げさよ。ただのお野菜のスープじゃない」
 口ではそう言うものの、アンジェラも褒められて悪い気はしない。多めにスープを注いでやった。それも、あっという間になゆたの腹の中へと収められる。
「でも本当、とてもおいしいですよ、アンジェラさん」
 ナリアも嬉しそうにスープを口に運んでいた。顔色も心なしかよくなっているように見える。
 アンジェラの頬がほんのり赤くなった。
「ぶらぼー姫様! 天下一!」
「もー、なゆたはまたそうやって変な言葉を覚えてくるんだから」
「だってほんとだもーん」
 にかっと笑ってなゆたは手を合わせた。
「ご馳走様でした! とてもうまかったです」
 そして椅子から下り、床に正座すると持ってきていた風呂敷の包みを解き、中から一冊の本と矢立てを取り出した。
「あれ、何すかそれ?」
 またもや扉の近くで立ったまま食事をしていたギガがなゆたの手元を覗き込む。
「これ? おれ、こっちの大陸に来てからずーっと日記つけてんだ。忘れないうちに今日の分書いとこうと思って」
「へー、見たことない本っすね。めっずらしー」
 すらすらと文字を綴っていくその本の装丁もそうだが、それよりもギガはなゆたが差している二振りの剣のほうが気になっていた。
「触っちゃだめよ、ギガ。その刀はなゆたにとってすごく大切なものなんだから」
 アンジェラはスープを一口飲むとなゆたの刀に視線を向けた。
「なゆたのお家の家宝なんですって。そうだったわよね? なゆた」
「おう、脇差のほうは違うけどなー。えーと、この街の教会堂って何て言ったっけ?」
 なゆたは唇を尖らせると筆の尻骨でこつこつと額をつついた。
「サンマリア教会堂っすよ。ワキザシって何すか?」
「さ、さんまりあ……と。脇差はほら、こっちの小さいやつのこと」
 ギガによく見えるように、その小刀を差し出した。家宝といった剣より刃渡りが短い。
「この脇差は殿から拝領したものなんだ。家宝も大切だけど、おれにとってはこっちのほうがもっと大切」
「トノ?」
「えーと、こっちの国でいう王様のこと。偉い人」
「ふーん……見たところ片刃っすね。少し弧を描いているようだし。構えってどんな感じっすか?」
 刀に興味津津といったギガの問いに、なゆたも嬉しいのか終始にこにこしながら答えていく。そんな二人を眺めていたアンジェラは、ナリアと顔を見合わせて苦笑した。
「ギガってば、ほんとしょうがないわね。わたしなんか、剣とか危ないものには近付かないようにって言われていたからよく分からないんだけど」
「そうですね、私も全く……男の人たちはそんなことないんでしょうけど。お二人とも楽しそうですし」
 ナリアは二人を温かな眼差しで見つめた。
 と、アンジェラがぴんと人差し指を立てる。

「あら違うわよナリアお母様。男の人じゃないわ。なゆたは女の子なのよ」

「……はあ?!」
 そう叫んだのはナリアではなかった。当のなゆたと談笑していたギガである。
 目の前のなゆたを食い入るように見つめると、勢いよくアンジェラを振り返った。
「ひめっ……お嬢様、今のまじっすか?!」
「そうよ? まあ、初対面の人はよく男の子と間違えるけどね。女の子でも腕は確かよ」
「えっ……そっ……そーか、だからさっき俺が強い奴と手合わせするのが趣味って言ったときにお嬢様笑ってたんすね?! うわー、ぜんっぜん分からなかった……」
 頭を抱えたギガの袖を、なゆたがつん、と引っ張る。
「なあなあ、ギガも手合わせ好きなのか?」
「そりゃー、まあ……」
「そうか! おれも好きなんだ、今度やろうぜ」
 にぱーっと満面の笑みを浮かべるなゆたに、ギガは脱力した様子だった。
 つられて、ナリアもくす、と声を立てて笑った。
「そうだ、食後にと思って紅茶を用意していたの。取ってくるわね」
 いそいそとアンジェラが席を立ったとき、部屋の扉が開いてアレートが帰って来た。後ろには不機嫌そうな顔をしたレオと、表情の読めないロビンがいた。
 アレートはまず母親を見、そして次にアンジェラに視線を移した。
「ほ、本当にいらっしゃっていたんですね、アンジェラ姫殿下……」
 驚いた表情を浮かべ、膝を折って礼を執ろうとしたアレートをアンジェラは慌てて止めた。
「アレート、いいのよ。それより怪我は? もう動いても大丈夫なの?」
「は、はい。フィラに手当てしていただいたので」
「そう、それはよかったわ」
 ほっと息を吐いたアンジェラの背後から、ナリアが「アレート、」と息子を呼んだ。
「母さん」
 アレートは母親が伸ばした手を怪我をしていない左手で強く握った。
 冷え切っていた指先をナリアの手が温めていく。
「……ただいま母さん。ごめんね心配かけて」
「無事でよかったわ……お帰りアレート。あいつらの手にかかってしまったのかと思っていたわ……」
 アンジェラは母子二人を見つめていた。
 レオが舌打ちする。アンジェラを睨んだ。
「何でお前がここにいるんだよ。何してんだ」
「あら随分ね。ナリアお母様と一緒にいたのよ」
 負けじとアンジェラも言い返す。ギガがその間に割り込んで火花を散らそうとする二人を引き離した。
「ちょっとちょっと、人の家で喧嘩しないでくださいよー?」
「わ、分かってるわよう。……ロビン、フィラからの伝言を聞いたのね。来れてよかったわ」
 ロビンがこくりと頷く。
「お腹空いてるでしょ? 今準備するわね。あ、そこの目付きの悪いお坊ちゃんもいるわよね?」
 そう言うと、一旦は引き下がったレオがアンジェラに噛みついた。
「誰が目付きの悪いお坊ちゃんだ! 俺を貴族扱いするんじゃねーよ!」
「仕方ないじゃない。わたし、あなたの名前知らないんだもの」
 ぐっと押し黙ったレオはしばらく逡巡していた。しかしアンジェラが台所に行こうとする素振りを見せると、その手を掴んで引き止めた。
「レオだよ! レオニード・バーリントン! 名乗ったんだから、お坊ちゃんはやめろよな!」
 言い放ち、アンジェラの手もすぐに離す。
 アンジェラはにこりと笑った。
「そう、レオって言うのね。じゃあちょっと待っていてね。すぐに用意するわ」
 足取りも軽く、アンジェラが台所へと立ち去ると、レオは大きな音を立てて椅子を引き、どっかりと腰を下ろした。
 アレートが苦笑する。
「してやられたって感じかな。すごいなあ、あのお姫様」
「すごくなんかねーよ。小賢しいって言うんだ、あんなの」
「もー、レオは……そうだ母さん、説明しとくよ。アンジェラ様のことなんだけどね」
 ナリアはアレートに向かって微笑んだ。
「分かってるわ。なゆたさんにもギガさんにもそう呼ばれていたもの」
 げ、と声を上げたのはギガだった。書き物をしていたなゆたも顔を上げる。
「ばれてたんすか……すみませんけど、この件は他言無用ってことに」
「えー、でも姫様自身も隠すつもりないよな?」
「そこが問題なんすよねー……」
 がっくりと肩を落とすギガ。それになゆたが何かを言い、ナリアとアレートが思わず笑う。
 ロビンは静かに空いていた席についた。顔を俯ける。
「じゃあ僕、アンジェラ様の手伝いに行ってくるよ」
 アレートは部屋を出て行きかけ、ふと足を止める。
 椅子に座って頬杖をつくレオは眉根を寄せ、ただ黙っているだけだった。


「ちょうどよかったわ、アレート」
 台所の入口に手を掛けた途端のその言葉に、アレートは思わず身を強張らせた。
 一国の姫君が炊事をしようというのだ。しかも、この家で、である。
「アンジェラ様、あの、あとは僕がしますので……」
「いいの、やりたいのよ」
 アンジェラは戸棚を開けると、指を一、二、三、と折り曲げて「三人分でいいのよね?」とアレートに尋ねた。
「は、はい」
「じゃあコップも……一度水で洗ったほうがいいかしらね」
「僕やります」
 アンジェラよりも先にコップを戸棚から取り出し、流し場に立った。
「ねえアレート。聞いてもいいかしら」
 布巾を片手に、アレートの隣に並ぶ。
「はい……何ですか?」
「ナリアお母様のことなの。お医者様には掛かっていらっしゃるの?」
 一拍、間が空いた。
 蛇口から流れ出た水がアレートの指先を濡らす。
「いえ……その、お金が無くって」
 言ってから、顔が赤くなるのを自分でも感じた。学校に行かず、働いていることを恥ずかしいとは思わない。しかしそれでも、病気の母親を医者に連れていくことさえ出来ていなかった。
 アンジェラがぽつりと言った。
「今日、大家の使いという人たちが家賃の取り立てに来たの」
「――え?!」
「なゆたが来てくれたから大丈夫だったけど……相当、酷い嫌がらせを受けているみたいね」
 アレートは自分の髪を整える振りをしてアンジェラから顔を背けた。濡れたままの手から水滴が飛び散る。
「でもね、ロリスもフレックもノイズも、皆なゆたにやっつけられちゃってたわ。あっという間だったわよ。だから、しばらくは来なくなると思うわ」
 アンジェラはアレートと目を合わせ、にこりと笑った。
「なゆた……さんって、さっき居間にいた、異邦人の方ですか」
「うん、そうよ。とってもいい子なの。それに強いし、彼女がいれば百人力よ」
「……彼女? 男の人じゃ……」
「皆そう言うけど、なゆたは女の子なの。確か十六か十七歳……だったかしら」
 アレートは目を丸くした。
「僕、てっきり同じ歳ぐらいかと」
「そうよねえ、年上には見えないわよね。童顔だもの」
「そうですね……」
 すっ、とアンジェラの手がアレートの前に差し出された。
「堅苦しいのは無しにしたいわ。わたしたち、同い年なのよ? 敬語じゃなくていいわ」
 アレートはアンジェラの手と、それから顔を見比べた。そっとコップを手渡すと、アンジェラは満足そうに笑ったのでアレートも強張っていた体が解れていくのを感じた。
「そうだわ、アレートは本とか好きなの?」
 布巾でコップを拭きながらアンジェラが言った。
「掃除をしているときに見ちゃったんだけど……ほら、居間にあった本、随分と読み込まれていたから」
「あ、あの本ですか……本かな?」
 じとーっと見つめてくるアンジェラに気付いて言いなおす。
「わたしも本は好きでよく読むの。あの本、ロルシュ国の小説家のものよね」
「うん、確かそうだったよ。あ、アンジェラ……も読んだことあるの?」
「勿論!」
 アンジェラはぱあっと表情を明るくした。
「ちょっと難しい本だけど、だからこそ読み甲斐があるっていうか。何度も読み直しているの。演劇にもなっているわよね」
「実際に観たことはないけど……僕はあの、序章の台詞が一番好きかな。『思いあれば迷うもの。それこそが人間だ』」
「そうそう、神様の台詞よね。嬉しいわ、わたし、勉強は家庭教師から教わっているから、こういう話が出来る友だちがいなかったの」
 アレートが視線を向けると、アンジェラは二つ目のコップを拭き終えるところだった。三つ目を受け取ろうとする手に、水の滴るコップを乗せる。蛇口を締めるのに、つい力が入った。
「あとはお皿ね。足りるかしら」
「僕が取るよ」
「大丈夫、任せて」
 アンジェラは戸棚から人数分の皿を取り出すと、それをアレートに手渡した。
「ありがとう」
 ぎこちなく微笑む。アレートはようやく、肩の力が抜けたような思いがしていた。



(矢立て:持ち運びできる筆と墨 小刀:しょうとう)
(ロルシュ国の小説=ゲーテ『ファウスト』)

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