第一章◆小国
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「というわけで、そろそろ王都に戻ろうかと思うの」
「……そりゃまた、急なご決断だな、おい」
 アンジェラが腰に両手を当て、決然とした様子で言い放ったのを、オルトは日課である犬たちの世話をしながら背中で聞いていた。来るのも突然なら、帰るのも突然な姫君である。朝食のときにパトロ・ラーグについて話したばかりだった。
 ――そう言うと思ってたぜ。
 ブラシを片手に手招きすると、アンジェラはオルトの横にしゃがみ込んだ。
「この仔たち、オルトが飼っているの?」
 かわいいわね、とアンジェラが目を輝かせた相手は、黒色、黒褐色、灰色と様々な毛色を持った犬たちだった。
「いや、こいつらは軍用犬でな。うちでれっきとした兵として働いてる。なりはでけェし、主人に対して忠実だからな、まあギガなんかよりはよほど優秀な奴らだぜ」
 そう言って黒い軍犬の顎を掻いてやる。気持ちよさそうに目を細めたその犬を見て、アンジェラはふむふむと頷いた。
「そうね、確かにきりっとした顔つきをしていて頼もしいわ。名前は? 何ていうの?」
「こいつはアルマだ。で、そっちの――」
 他の犬たちを順番に指差していく。
「黒っぽい褐色なのがオータ。灰色なのはフローレンス。雌だ」
「この関所にいるのは三匹だけなの? 触ってもいい?」
「噛まれないようにな。一小隊ぐらいならいるぜ。この三匹はよくこの執務室で仕事してもらってんだ」
 他の軍犬たちよりも経験豊富な三匹である。執務室から部下へ書類などを運ぶ伝令役としても十分に活躍してくれている。
 アンジェラがその頭を撫でてやると、アルマはもっともっと、というようにアンジェラの手に擦りついた。
「いいこねー、アルマ。……そういえば、王都でも軍犬を見たことあるわ。犬種は違うようだったけれど」
「王都の軍犬ねえ……」
 オルトが首を捻る。
「あァ、そりゃお姫さん、あんたの親父さんの印章に使われてた犬じゃねえか?」
「父様の?」
 大戦時、軍を率いる父王の姿を、幼かったアンジェラは目にしたことがある。
 翻った旗に描かれていた印章を思い出そうとして、眉間に皺を寄せた。その様子を見たオルトが低い声で笑い始める。
「おいおい、お姫さん。まさか覚えてないなんて言うんじゃねェだろうな?」
「あのね、オルト。大戦があったころ、わたしはまだ六歳か七歳だったのよ。記憶があやふやなのは仕方がないでしょ。うーん、あとちょっとで思い出せそうなのに……」
 唇を尖らせ、うんうん唸る。
 オータにブラシをかけてやりながらオルトが言った。
「お姫さん、あんたの住んでる城の名前は?」
「ク=クール城よ。それがどうかしたの?」
「ク=クールには『猛犬の空』ってェ意味があんだろが。親父さんの印章はそっからとってんだよ」
「そうなの?」
 きょとんとした表情のアンジェラに、オルトは苦笑した。
「あんた、本当に覚えてねェんだなァ。親父さんは『水晶を銜えた猛犬』を印章にしてたんだよ。俺はよく覚えてるぜ」
 アンジェラは目を瞬かせた。
 四月七日の供養祭が終われば、父王の時代は正式に幕を下ろすことになる。七年間の供養を終えて、ようやく新しい王の治世が始まるのだ。現国王である兄は、大戦終結後の混乱したこの国をよく治めてきた。   王の印章が、あと六日で変わる。
「兄様の印章は……どんなものになるのかしら」
「さあなァ。前が犬だったんだから、次は猫とかじゃねェか?」
「そうね、兄様ってよく動物に懐かれる方だもの。案外オルトの言う通りになるかもしれないわね」
「お姫さんよ……冗談だ、今のは」
 オルトが言うと、アンジェラは慌てて「も、勿論分かってるわよ!」と頬を赤くした。
「兄様はほら、キアラを可愛がられてるし、もしかしたらの話よ、今のは!」
「あーはいはい」
 あっさりと受け流し、オルトは片手を振った。
「それで、その兄貴の所に戻るって決めたんだろ。迎えは俺が用意しておいてやったから、そろそろ帰る準備でもしといてくれや」
「オルトったら! ちゃんと分かったの?」
「分かってる分かってるって。ほら、行ってこい」
「もー……ロビンとなゆたに話をしてくるわ。でも迎えって、誰に頼んだの?」
 扉の取っ手に手をかけ、振り返る。
 オルトは立ち上がって膝についた埃を払っているところだった。その足元に軍犬たちが寄り添うように身を起こす。
「馬車を飛ばしてくるらしいぜ。あんたの『皐月会』の連中がな」


 ノア北関所に設けられた鍛錬場では、木と木をぶつけ合う鈍い打音が続いていた。なゆたとギガの二人が互いに長さの違う棒切れを使って手合せしているのだった。
 なゆたが握っているのは緩やかに弧を描いた棒切れ――木刀といえるものだったが、ギガのほうはというと、身長の半分ほどもある棍棒のようなもので戦っている。手入れされているわけでもなく、なゆたとの手合せのためだけに適当に誂えたものだ。
 鋭い一撃をいなしたあと、なゆたは数歩下がってギガとの距離を空けた。
「……なあ、ギガ」
「んー? 何すかなゆたちゃん。もうばてたんすか?」
 左足を前に出し、右頬のすぐ横で棍棒の切っ先をなゆたに向けて、ギガが構える。
 いつも通りの口調を装ってはいたが、その両目は濡れたように光っていた。
 なゆたは首を横に振った。
「そうじゃなくてさー。ギガ、おれはどっちでもいいんだぜ? 木刀でも真剣でも。そんなのじゃやりにくいんじゃねえの?」
 木の皮がついたままのギガの得物を見る。
「いいんすよ、これで。あんまり熱入れんなって隊長にも言われてますしね」
 言い終えると同時に、斬り込んだ。
 ギガの剣術とは異なり、なゆたのそれは静止と運動を素早く繰り返しているようだった。自身が小柄であること、力が弱いことをなゆたはよく理解している。ギガが動くまでは決して打ち込んでこず、その大きな目で相手の太刀筋を見極めようとしていた。
 ――これは『方術』じゃないな。
 真正面から組み合うことを避けるなゆたに、ギガの心中に疑問が浮かぶ。
 目に見えない気とやらを操るという方術をなゆたが使っている素振りはない。
 武器を扱っているからか。それとも単に、出し惜しみをしているのか。はっきりとは判断できずとも、ギガはなゆたが纏っている余裕にも似た空気を剥ぎ取ろうとしていた。
 と、なゆたが急に縮こまった。木刀を両手で握り、ぎゅっと身に寄せる。
 守りに入った、やるなら今だ――ギガは大きく左足を踏み出して斬りかかった。
 その一打を受け止めた木刀のその柄が、触れ合った刃と刃の部分を支点にくるりと回った。
 柄がギガの右腕の内側に入り込む。そこがじんわりと温かくなったのを感じた瞬間、そのまま押し下げられ、棍棒から手が離れた。
「……うわっ……!」
 同時に軸足を払われる。ギガは踏ん張ることも出来ずにころんと地面に転がっていた。
「はい」
 とん、と肩に木刀の切っ先が置かれる。
「一本だな。おれの勝ち!」
 なゆたがにかっと歯を見せて笑う。尻餅をついた形でそれを見上げていたギガは、我に返って勢いよく立ち上がった。
「い、今のが方術っすか!」
「うん? 何でギガがそれ知ってんだ?」
「シャーレに聞いたんすよ! 気とかいうやつを使う武術なんすよね? うおー、すげえ!」
「えーっと……ギガ?」
 一人盛り上がるギガに、なゆたは苦笑いで声をかける。
「さっきのは殆どユシード東関所で教えてもらった技だぜ。だから、方術とはちょっと違うんだ」
「ユシードでってことは……もしかして、シャーレの奴の技っすか?」
 なゆたが頷くと、ギガは苦悶の声を上げてその場に蹲った。
「またシャーレに負けたのかっ……! あいつめ、見た目は完全に羊っぽいくせに、何であんなに強えんだよ! いっつも『にこっ』としか笑わないくーせーにー!」
「ギガはシャーレを……えー知る人? なのか?」
「知ってるも何も、俺とあいつは同期っすよ。昔、中央勤務で一緒だったんす」
 あー、まさかシャーレの技に負けるとはなー、とぶちぶち不満を漏らしていたギガだったが、不意に立ち上がってなゆたに尋ねた。
「あ、でも殆どって言ってましたよね。ちょっとは方術使ってたんすか?」
「おう。右腕が熱くなっただろ? それが気が通った証なんだ」
 なゆたは自分の右腕を叩いてみせた。
「ギガが煽るからだぜ。つい気合が入っちまったなー」
「は? 俺、何かしました?」
 そう聞き返され、照れたように笑うなゆただったが、ついとその顔をギガから背けた。
「なゆたでいいよ。今更女扱いされんのは、くすぐったいんだ」
 正面から見るよりも、横顔のほうが大人びていた。ギガが声をかけようとしたとき、なゆたはぱっと片手を挙げた。
「――姫様! ロビン!」
 なゆたが呼びかける先に、こちらへと歩いてくるアンジェラとロビンの二人がいた。



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