第一章◆小国
15

「なゆた、お願いがあるんだけど、」
「おう! いいぜ姫様。何すんだ? 喧嘩か?」
 話を聞き終える前に、ぐっとやる気満々の拳を握る。そんななゆたにアンジェラは苦笑を漏らし、首を横に振った。
「違うわよ。『皐月会』が迎えに来てくれるらしいの。アレートのこともあるし、王都へ戻るわ」
「ああ。そういえばおれ、姫様連れ戻しにサンマリアまで来たんだっけ」
 忘れてた、と頭を掻く。
「王都に戻ったら、アレートの大家さん……パトロ・ラーグという人物を探すわ。彼ならロリスたちの取り立てをやめさせることが出来るでしょう。ロビンも協力してくれる?」
 きっと承知してくれるだろうと思っての言葉だったが、それは一瞬だけロビンの顔に戸惑いの色を刷いた。
「ロビン?」
「……いや、なんでもない」
 きゅっと唇を結んだあと、ロビンは頷いた。
 ギガがこれ見よがしに挙手をする。
「姫様ー、何なんすか、その『皐月会』って。五月生まれの人が集まって誕生日祝う会っすか?」
 アンジェラは肩を竦めた。
「皐月会はこの国の学者が集まった会よ。ローズクロス学院の教授とか、アルサティア教の研究者とかが所属しているの。今運営しているのはわたしなんだけど、設立したのは兄様なの。兄様は五月に即位なさったから皐月会っていうのよ」
「学者の集まりっすか……へー……頭のいい人たくさんいそうっすねえ」
「ちょっとギガ、なあにそのあからさまにがっかりした顔は」
「いや俺、学問の奴とは付き合いが悪いもんで」
 カテーキョーシとも仲良くしてなかったしー、と恍けるギガは、根っからの軍人である。なゆたはどうだと様子を見ると、意外なことに「これが結構面白いんだぜ、ギガ」と腕を組んで頷いていた。
 アンジェラが得意そうに胸を張る。
「なゆたは勉強家だもの。皐月会の人たちとも仲が良いのよ」
「へー、人は見かけによらないんすねー」
 しみじみとなゆたを見下ろす。
「それに読書家だもの。ねえ、なゆた、あの言葉を言ってみてちょうだい」
「ああ、あれ? 姫様あれ好きだよなー」
「ギガもロビンもちゃんと聞いててよ?」
 姫君に袖をとられ、ギガとロビンは何だ何だと首を伸ばした。
 と、なゆたが口を開く。

「修身斉家、治国平天下」

「……えっ、何すか今の呪文」
「ほらね、凄いでしょう?」
「凄いっていうか……何語かすら分かんなかったんすけど。ロビン、分かった?」
 首を横に振る。動揺してか、いつもより大きな動きだった。
「今のは……東大陸の言葉なのでは」
 なゆたが頷く。
「当たりだぜ、ロビン。こっちの言葉にどう訳せばいいかまだ分かんないんだよな」
「何か、意味が?」
「えーっと、確か……政を行うには、まず初めに自分の身を修めて行いを正し、次に家庭を整え、その次に国を治めるという順序を経て天下に平和をもたらすようにすべき、って意味なんだって。これはニコラスに教えてもらったんだけどなー」
 つまり、そのまま覚えているということらしい。アンジェラは嬉しそうに何度も頷きながらなゆたの腕に自分のそれを絡ませた。
 仲の良さそうな二人の様子を見ながら、ギガとロビンは横目でそっと視線を合わせた。お互いが同じことを考えていることを確信した。
 ――さっきの言葉のどこに、年頃の女の子が気に入る要素があったのだろうか。
「まー……ある意味では当然なのかねー……?」
「アンジェラらしい……」
 ぼそぼそと感想をロビンに漏らしていたギガに、アンジェラが人差し指を突きつける。
「だからね、ギガ。勉強することだって大事なのよ。文武両道って言うのよ。そうだったわよね? なゆた」
「おう! そのとーり!」
 明るく力強いなゆたの肯定の声に、ギガはうげ、と舌を出した。そういう流れに持っていかれるとは予想外だった。適当に返事をしながらその場を逃げ出したが、五分も経たないうちに鍛錬場へ戻ってきた。
「姫様、隊長が呼んでるっす。執務室へ来てほしいと」
「オルトが?」
 さっき別れたばかりなのに、とアンジェラが訝しげに答えた。ギガはわざとらしく肩を竦めて言った。
「早く行ったほうがいいと思いますよ。お友だちが待ってるみたいっすから」


 執務室の扉の向こうでアンジェラを待っていたのは、部屋の主であるオルトと、――他でもない、アレートだった。
 声をかけようと口を開きかけ、相手の顔色が悪いことに気が付いた。
「どうしたの、アレート。何かあったの?」
「あ、アンジェラ……」
 アレートは自分の顔を覗き込むアンジェラの名前を呼ぶと、力尽きたように椅子に身を沈めた。その代わりにオルトがアンジェラの問いに答えた。内心呆れて溜息を吐きたいのを無理に耐えているように見える。
「レオニード・バーリントンがいなくなった。そこのアレートが探した限りではサンマリアのどこにも姿が見当たらないらしい」
「いなくなった? どういうこと、オルト」
「パトロ・ラーグだよ、お姫さん。レオニード・バーリントンもあんたと同じことを考えてたんだよ。伯父の言いつけを破って、王都へアレートの大家を探しに行ったんだ」
 アレートが俯いた。
「昨日の夜、レオの様子がおかしいことには気づいてたんだ。でも、まさか一人でサンマリアを出ていくなんて……僕、思ってもみなかった。レオは僕と母さんのためにバーリントン家の誓約(ゲッシュ)を破ってしまったんだ」
 誓約。
 その言葉にアンジェラは息を呑んだ。
 この国の民ならば、誰でも交わしたことのある誓い――誓約。
 アルサティア教では特に重要とされる儀式の一つで、人々が人生の中で常に守り続けなくてはならない約束事を神々に対して誓うのである。それは親から代々伝わる戒律であったり、個人が自分の生き方として定める目標であったりする。
 誓約を破るということは、この上ない不名誉なことだった。特に、上流階級の人間にとって誓約は果たすべき義務であると同時に、家名のためにもなくてはならないものだ。厳守しなければならない誓約を破るということがどういうことなのか、王族であるアンジェラには身に染みてよく分かっていた。
「アレート。……その誓約はどんなものなの?」
「……“バーリントン家の者は、主の許しがない限り、サンマリアの街を出てはならない”……どうしよう、アンジェラ。僕のせいだ……」
 いてもたってもいられないといった様子で椅子から立ち上がろうとしたアレートをアンジェラは押しとどめた。
「分かったわ、アレート。わたしがレオを探すわ」
 アレートが顔を上げる。その不安に揺れた目を見つめながら、アンジェラは続けた。
「レオの行き先が王都なら、きっとすぐに見つかるわ。探して、サンマリアに戻るように言ってみる」
「アンジェラ、僕も……」
「アレートは待っていて。ナリアお母様と一緒に。大丈夫よ、レオにはわたしからがつんと言ってあげるんだから。でも、その前にやることが出来たわね」
 アンジェラの視線を受け、オルトがひらりと片手を振った。了解の合図だ。
 ――お貴族様。
 以前、アンジェラのことをそう呼んだレオは『身分の高い者』への嫌悪を隠そうとしていなかった。その皮肉交じりの言葉は、上辺だけはアンジェラに向けられていたものの、その実、アンジェラではない誰かに吐かれていたようだった。
 バーリントン家――そして、その誓約。
 レオにとっては、ただ不自由なだけのしきたりだったに違いない。
「サンマリアの『主』といえば……領主であるローレンシア様しかいないわね。ねえオルト、手紙を書くから、それをローレンシア様と……レオの伯父様に渡しておいてくれるかしら」
「一通分で十分だ。レオの伯父は領主さんの執事だからな」
 オルトは立ち上がり、つかつかとアンジェラへ近寄った。
「ポーの野郎は元同僚でな。返事はどうする」
「後から送ってちょうだい。わたしたちは皐月会が着き次第、すぐに出発するから」
 そう言ってアレートを振り返る。
「ポーには誓約を破ったことでレオを責めないように言付けておくわ。アレートにはそのとき、きちんと説明しておいてほしいの」
 アレートが頷くのをみると、ためらいがちに、けれどはっきりと自分の考えを述べる。
「誓約にも色々な種類があるけど、古くから伝わるものの中にはその理由や意味が正確に分からないものがあったりするの。バーリントン家の誓約もそうなのだと思うわ。でも、分からないだけで、ないわけじゃないから――そのことを、レオに話してみる」
 街の外に出てはいけない。
 それが何故なのか――何のためなのか、今は理解できなくとも、誓約としてレオに伝えられているのなら、それはレオに必要なことなのだ。
「……レオなら、納得してくれるよ、きっと」
 アンジェラに向けてロビンが言う。
「レオは、人の気持ちを、自分のことのように考えてくれるから」



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