第一章◆小国
16

 その日の昼過ぎのことだった。アンジェラたちが王都に戻る準備をちょうど済ませたころに、皐月会がノア北関所へと到着した。
「どいたどいたあ!」
 激しい声と共に、四頭立ての馬車が勢いよく関所の門を潜り抜けた。馬の蹄が土を跳ね上げる。ともすれば、そのまま隊舎に突っ込んでいきかねない迫力だったが、御者は器用に手綱を操り、砂埃を立てながらも急停車することに成功した。
 馬車の側面には国章が描かれていた。青の地色に、花の形をした水晶がそれである。
「ちょ、ちょっとあんた。一体何のつもりだよ。関所に用なら、もっと静かに入ってきてくれないと困るよ」
 門番が慌てて馬車に近寄る。しかし注意を受けた御者は「君にはこの紋章が見えないらしいね?」と悪びれた様子もなく笑った。荒々しい操縦とは異なり、山高帽の下から覗いた笑みは華やかな女性のものだった。
「皐月会、庶務担当のアイリーン。只今参りましたと、殿下にお伝えしてもらえるかな?」


「アイリーン! よかった、来てくれたのね」
「そりゃ来ましたよー! 殿下、ご無事で何よりです」
 隊舎から出てきたアンジェラに、アイリーンは膝をついて礼を執る。軽く視線を上げ、ぱちりと片目を瞑ってみせた。
 それに気づいたアンジェラが苦笑する。
「もう、大げさよ、アイリーン。なゆたも一緒にいたんだし、危ないことなんてなかったわ」
 ね、と肩越しになゆたを振り返る。
「ま、まーな!」
「ふーむ。まあ、なゆた君の腕っぷしは私も知るところではありますがね。それから勉強家なのも」
 異邦人のなゆたに読み書きを教えているのがこのアイリーンだった。皐月会には珍しい庶民出身の研究者である。
「何はともかく、殿下、荷物はまとめておいでですか? 七日までもう日がありません。すぐにでもサンマリアを出発なさったほうがよろしいかと」
「ええ、準備はできているんだけど……ロビンがどこかにいっちゃったの」
「ロビン? 殿下、ロビンとは? 初めて聞く名前ですが」
「そうだったかしら。ロビンはわたしの友達よ。一緒にサンマリアに来たの」
「…そうなんですか?」
 探しに行こうとしたとき、ふいに馬車の扉が開いて中から一人の男が顔を出した。アイリーンと同じく皐月会に所属する研究者、フェイ・ライである。フェイは一重の目をアイリーンたちにむけると、おもむろに口を開いた。

「……空腹を感じる」

「……」
「……」
「えー、もう? フェイ、君、さっきお昼食べてたじゃない」
 アイリーンがただ一人フェイの言葉に反応を返した。フェイは腹を押さえて何かないの?と言わんばかりの顔をしている。
「確かに、食べた、けど……あれじゃ足りないよ。そもそも、アイリーンが一口頂戴とか言って僕の分殆ど食べてたじゃないか」
「心外だなあ。君が食べるの遅いから、てっきりいらないんだと思ったんだよ」
「それでよく太らないよね……全く」
 ぼそぼそと文句を言っていたフェイだったが、馬車を降りてアンジェラの前まで来るときちんと礼を執った。
「殿下、皐月会フェイ・ライ、只今参上いたしました。遅くなり、申し訳ありません」
「あ、相変わらずみたいね、フェイ」
 アンジェラの目から見ても、フェイの持つ雰囲気には独特のものがある。自分の身に危険が迫っていても平然と研究を続けようとするような、そんなどこか達観したような男だった。
「それも彼女のおかげでして」
 フェイがちらりと視線をやったのは勿論アイリーンだ。
「なーに、その文句言いたそうな目つきは」
「別に何も……ただアイリーンがもう少しお淑やかになってくれればいいのになあって思ってるだけだよ。大きな声じゃ言えないけど」
「言ってる! 思いっきり言ってる! 君の根暗を私のせいにしないでほしいね!」
「僕は根暗なんじゃなくて、落ち着いてるだけ。いつも忙しないアイリーンにはわからないだろうけど」
 フェイとアイリーンのやり取りを黙って聞いていたなゆたがアンジェラの服の裾を引っ張った。
「なあ姫様……この二人って会うといっつもこれと同じやりとりしてるよな?」
 アンジェラは難しい顔で頷いた。
「そうね。きっとこの二人の間での挨拶の一種なのよ。……多分ね」
「へー、挨拶なのかあ……」
 なゆたは顎に手を当てるとまだ言い合いをしているフェイとアイリーンをじっと見つめた。
 ――おれには痴話喧嘩にしか見えないんだけどなあ……。
 本気で言い争っているわけではないから、アンジェラも止めには入らない。そんな姫君を見習って、なゆたも口には出さず、胸の内に納めておくことにした。


「おう、そこにいたか、ロビン。ちょっと手伝えや」
 馬小屋に向かう途中、オルトはふらりと姿を見せたロビンを捕まえて馬小屋まで引っ張っていった。アンジェラたちがサンマリアを出発するのは、馬車馬を換えてからということになったからだった。アイリーンの操縦について報告を受けていたオルトとしては、あまり大事な軍馬を貸したいとは思わなかったのだが、これで厄介払いが出来るなら、と結局はこうして準備に勤しんでいる。
「ロビン、そっちの馬を頼む。…ったく、あのアイリーンって学者先生も無茶言ってくれるぜ。うちのいい馬を四頭も…王都までの二日間、せいぜい乗り潰さないようにしてもらわねェとな」
 大きな黒毛の馬を四頭、馬小屋から連れ出し、アイリーンが乗ってきた馬車に繋ぎなおしてやる。
 その内の一頭の首筋をロビンは優しく撫でてやっていた。オルトはその馬が、先日アンジェラをローレンシアの館まで乗せていった馬だと気が付いてすこし驚いた。
「よく分かったな。馬の扱いには慣れてるほうか?」
「この国に来るのに……ずっと。それに、この馬はとても利口だ。あの時は世話になった」
 ロビンが触れるのを、馬も嫌がっていないようだった。大人しく身を任せている。
「どんな風に世話になったかは聞かねェが、お前さんも大変だったな。領主のところはどうだった。お姫さんはうまくやったのか?」
 その問いに、ロビンは答えなかった。オルトは肩を竦める。
「ま、ポーの野郎は頭が堅いからなァ」
「…時間が…」
「あ?」
「いえ、何でも」
 そう言ってまた馬を撫でるロビンの髪に、葉のようなものが何枚かくっついていた。教えてやるとロビンは慌ててそれらを叩き落とした。
「何だ、お前さんでも慌てることがあんだな」
「…木に登ってた。気が付かなかった」
 ほんのわずか、困ったように眉を寄せる。
「木に登ってた? 何しにだよ」
「鳥が…来てないかと思って」
 その言葉の意味を掴みかねてオルトは首を捻った。馬をすべて繋ぎ終えると、胸元から煙草を取り出して火をつける。
「オルト隊長」
「あ? 何だよ」
 ロビンはオルトのほうに顔を向け、静かに尋ねた。
「オルト隊長、あなたは……俺がここに来た理由を分かっているのか」
「……分かるわけねェだろ? お偉いさん方のやりとりに口挟むほど馬鹿じゃねェつもりだがね、俺は」
「でも……ここの関所は何か隠してるだろう。アンジェラか……俺に知られたくないことがあるように思える」
「へえ?」
 オルトはにやりと笑った。 面白い。
「なんでそう思う? 根拠でもあるのか?」
「根拠というほどじゃない……が、少し気になることがあった。禁足地での、ギガの口笛。何か引っかかった」
 危険と承知であるはずの禁足地で、わざわざ口笛を吹く。その行為がロビンの目には不自然に映った。
 オルトは鼻を鳴らすと煙草の煙を勢いよく吐き出した。
「ギガか。あれはあれで役に立つところがあるんだがなァ。……いや、ロビン、お前さんの目が利き過ぎてんだろうな、この場合は」
 ロビンの顔を見て、低く笑う。
「お前さんと話してるといろいろ思い出す奴がいるな。――まァ、それはともかく、黙ってておいてくれや、ロビン。お互いお姫さんには知られたくねェだろ」
「……アンジェラに対して隠したいことなのか」
「お転婆でも、一応王族だからな」
 ロビンは頷いた。勘でしかなかったが、オルトの隠し事が悪いもののようには感じられなかった。
 それに、オルトが隠しておきたい相手はアンジェラだ。

 放っておいても、ロビンの邪魔にはならない。



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