偉大なる落し物/雨隠れ
03

 紫陽花が咲いている。
 今年の梅雨は長引いた。



 細雨が庭に降り注いでいるのを十梅は背中で感じていた。日中から明かりをつけると時間の感覚が少しずつずれていくのが分かる。卓袱台や戸棚や襖の影がいつもより濃く見えた。
「トウメサン、出来ましタ、コレ」
 ウィルマーリは両手に赤い紐を巻きつけたまま、台所の十梅に声をかけた。その頭上すれすれに、赤い蜘蛛の網がどこか足りない様子で張り巡らされている。雨続きで溜まった洗濯物を一気に干そうというのである。
「少し待っていてください、今月分の支出まで書き終えますから」
 十梅は振り向かずに答えた。手元には家計簿と算盤とぴらぴらのレシートがある。
 梅雨の湿気に耐えかね、一つに纏め上げた黒髪は、襟首を隠し切るほど長くはなかった。
「赤字ですね……まあ、一人暮らしだったのが二人になったんですから、仕方ありませんけど」
 そう言って前髪をかきあげる。ウィルマーリは赤字の意味が分からずに、ぐるぐると赤い紐を巻き取っていた。椅子から立ち上がった十梅にそれを差し出して笑う。
「洗濯物、干しますカ、トウメサン」
「貴方は呑気ですねえ……」
「ノンキ?」
「のんびり屋さんですねって話です」
 ウィルマーリの指先に絡む紐をむしり取った。洗濯物は籠に山盛りになっている。家で干し切れなければ、近所のコインランドリーに行くしかない。
 文月は居間の隅で丸くなっていた。顎を図鑑の上に乗せ、枕の代わりにしている。雨の日は大体がこうして昼寝の時間だった。
「じゃあ、ウィルマーリさんは、バスタオルとかを干してくださいね」
 籠の一番上から洗濯物を取ろうとしていたウィルマーリは、中腰の姿勢で動きを止めた。十梅はその横から籠に手を突っ込み、バスタオルをまとめてウィルマーリに押し付ける。
「……」
「……」
「……」
「……なんてお顔をしているんですか」
 十梅はバスタオルを受け取らないウィルマーリを見てそう言った。困ったような笑ったような顔をしている。
「ンー…他のが干したい、デス」
「……ウィルマーリさん」
「ハイ」
「その籠を渡してくださいますね、今度は何を買ったんですか」
 ウィルマーリの背後にある洗濯物の影に、見慣れない洋服があることに気づいた。小さいサイズだ。
 十梅の剣呑な声に文月が反応した。片耳を揺らし、図鑑から顔を上げる。腰に手をあて仁王立ちする飼い主を、居候はやわやわとごまかし切ろうとしているようだったが、まあ、上手くいくわけもない。
「ウィルマーリさん」
 たったの一声でウィルマーリはその場から退いた。
 十梅はその小さな服を引っ張り出した。水色のレインコートだった。ただし、ペット用の。
 十梅の手の中で、ぺらぺらとレインコートは捲れている。
「ニャ、……」
 二人があまりに沈黙しているので、文月は気を使って控えめに鳴いた。
「文月の洋服なら、この前も買ったじゃないですか」
 そう言ってウィルマーリを見上げると、視線が真っ向からぶつかった。これには十梅の方が僅かにたじろいだ。ウィルマーリが次に言うだろう言葉が、その口元の辺りにふわふわと浮いているように錯覚した。
 洋服は前にも買った。ウィルマーリのものではなく、全て文月のものだ。
「買ってあげたかったのデ」
 ウィルマーリはふにゃりと笑った。
「文月が外に遊びに行くとき、雨が降っても、きっと大丈夫だと思ったのデ」
「それならそうと言ってください」
 十梅はくるりと踵を返した。レインコートを赤紐にかけ、洗濯ばさみで挟む。
 ウィルマーリも横に並んだ。たどたどしい手付きでバスタオルを広げた。
 赤紐にかけたところに、十梅が無言で洗濯ばさみを差し出す。
「トウメサン、怒ってますカ?」
「いいえ」
 家計簿のことが十梅の脳裏を横切ったが、すぐに詮ないことと思い直した。
「でも今度は隠さないでください」
 少し雨音が大きくなった。ウィルマーリは気づかなかったが、十梅と文月は庭の方に目を向けた。
 嵐の前触れのような雨だった。



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